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闇の時代のなかで考える(下)——近代の終わりから抜け出す「自己論」のために(下)

科学的精神と自然からの逆襲

 

この記事は、「闇の時代のなかで考える」の続編である。前回の記事では、僕らが生きる時代は、「歴史の暮れ方」を超えて、闇の時代であり、そこでは、「暮れ方」において可能であったようなディタッチメントのスタンスも有効ではないという旨を書いた。

 

「歴史の暮れ方」が終わり、「闇の時代」に入ったのは、ホブズボームの歴史区分でいえば、「短い20世紀」の終わった1991年以降ということになるだろう。私たちは、「終わりの始まり」を生きているのではなく、「終わりの終わり」を生きている。これが前回触れたような、“ああ、もう終わってしまったのだな”という感覚の背後にある時代背景だと思う。

 

ともあれ、人間性への信頼は「短い20世紀」のはじまりにおいて、とうに失われてしまったのか?

人間性を社会の解放のなかでよりよいものへと実現するという19世紀的な希望は失墜したのであろうか。

 

このことを続編では考えてみたい。まず、触れておきたいことは、近代という時代の駆動力であり、いまだにそうである科学とそれを生み出すメンタリティについてである。ここでは科学という営みとそれを支えるメンタリティをひとくくりにして「科学的精神」と呼ぼう。言ってしまえば、20世紀の大量破壊戦争を生み出した背景をせんじ詰めれば、「科学的精神」の強力な下支えがあったと言えるだろう。ダイナマイトしかり、毒ガスしかり、原爆しかり、無人爆撃機しかり。

 

 

「科学的精神」のはじまりをどこに定めるか、これは難しい問題である。時代や地域別に技術的な発明の系譜をたどっていけばキリがない。

 

ここでは、近代の科学的精神の源流がどういったものであったのかを触れておくにとどめよう。

 

科学的精神にもとづく社会設計が伝統的な世界観を解体し、新たな自己認識へと道を開いたともいえる。デカルトが『方法序説』でカントに先行して「純粋理性」を見出し、それを事物の世界の法則と合致させたこと、あるいは、フランシス・ベーコンが『ノヴム・オルガヌム(新機関)』において、事物の世界の法則性を実験によってあぶりだす思考法を定式化したこと、両者の視点は、理性的な思考と経験的な思考という点で対極的であるが、モリス・バーマン(上の写真)の『デカルトからベイトソンへ』という著作では、この対極的な2つの合理主義的精神の潮流がのちにガリレオとニュートンの科学的世界観へと結実していく点で、科学主義的精神の土壌を生み出した両輪であったことが指摘されている。

 

 

「短い20世紀」が目撃したのは、国家同士の殲滅戦やそうした枠組の下での争いという側面に加えて、あるいはそれ以上に、科学的精神によって事物の世界へと力を行使しようとすることで生み出された世界に私たち人間が巻き込まれていき、それがヘーゲル的な成熟を約束するところの「国家」さえも超えた力を持つようになったという側面ではなかったか。

 

それは、同時に、今日のエコロジー問題で示されているように、自然の収奪であり、それによる資本の蓄積であり、また、資本の蓄積を通じた人間(労働者)の収奪でもあったと言える。そうした収奪の側面は、20世紀の、そして今日まで続く、資本主義市場におけるいっけん公正な商品交換においては見えなくなってしまう側面であろう。しかし、そうした見かけの背後には、科学的精神が世界を支配する力を得るなかで、支配された自然が人間社会に逆にネガティヴな力を及ぼすという現実がある。

 

決して自然を擬人化しているわけではない。そうではなく、人間の認知や存在論の側面に目を向けると、「人間/自然」という境界を明確に定めることができないのではないか、ということである。むしろ、その境界線はかぎりなく透過的であり、自然環境が被る影響は人間の身体や認知に大きな作用を及ぼすと言えるのではないか。環境哲学者のJ・ベアード・キャリコットが述べていることだが、「文化の多様性は、そもそも生物の多様性に基づいて」おり、「生物多様性は、生物種を統合する生態系(エコシステム)と対をなし、それと補完し合う関係にある」(『地球の洞察』、みすず書房、pp.62-63)。人間の文化世界も、当然のことながら、生態系との相互補完の関係にある。もし、文化破壊が収奪や暴力によって起きるとすれば、生態系と対をなす生物多様性の破壊をも伴うものとなり、それによって生態系と人間社会との間の補完関係も致命的な影響を被ると考えられる。

 

「資本制=ネーション=ステート」の終わりと「家族」——柄谷行人と東浩紀

 

冒頭で触れた「根無し」の議論に強引に引き付ければ、「根無し」とは、こうした自然からの負のフィードバックを人間が被っているという事態によって引き起こされるのではないだろうか。だが、こういったからといって、簡単に「自然に帰れ」と言いたいわけではない。

 

かつて、柄谷行人が『トランスクリティーク』のなかで(あるいは、それ以降)図式化しているように、歴史的に「贈与」「収奪・再分配」「商品交換」という三つの交換様式が存在し、その交換様式に対応する社会形態として「ネーション」「国家」「資本」がある。

 

 

最近では、この議論を受けて東浩紀が『観光客の哲学』において、「ネーション」を「家族」と言い換えた。というのも、柄谷図式のなかでネーションは「商品交換の経済によって解体されていった共同体の『想像的』な回復」であり、この点で、近代は「資本制=ネーション=ステート」という三位一体の社会構成をなすのであるが、東は、「ネーション」のレベルに——あるいはその上位概念に——「家族」という「想像的」な概念を位置づけようとしている。

 

また、東が「ネーション」ではなく、「家族」を「ネーション」よりも上位に、あるいはそれを脱臼させるような概念として位置づけるのは、「長い19世紀」以来の産物である「資本制=ネーション=ステート」の賞味期限が切れてしまっているという時代診断があってのことだろう。というのも、「資本制」が「共同体」の紐帯(慣習的な絆)を解体し、流動的な雇用市場のなかで社会格差を生み出し、それを「収奪・再分配」をつかさどる「国家」によってある程度補正し、また、「ネーション」という集合を教育・メディアなどを通じて形成することによって共同体的な紐帯を想像的に回復することで、近代の三位一体図式の正当性が信じられてきたのであるが、21世紀はもはやその正当性が空中分解——というのは、国家や資本主義に反抗する社会運動によって正当性が無効化されるわけではないから——してしまっているのである。

 

現代社会を少し観察してみれば、資本主義はかつてなく労働市場を流動化させ、社会格差を生み、国家は再分配機能としての役割から撤退し(消費増税をしたり、汚職が横行するなど「収奪」の側面はむしろ相対的に強化されている)、ネーションは社会分断が強化されるなかでもはや修復不可能なまでに私たちの「想像」から抜け落ちてしまっている(もちろん、それぞれのイデオロギーにとっての「ネーション」は存在するが、イデオロギー的言説のための「繭」として、その「想像」が機能しているにすぎない)。

 

こうした状況において、「ネーション」を「家族」へと読み替え、「ネーション」を脱臼させ(というか、勝手に空中分解したのだが)、「想像」のレベルで資本主義と国家に抗するような「贈与」の領域を拡張的に捉えようというのが、東浩紀の家族の哲学であろう。「家族」が拡張的なのは、東自身が示す例によれば、氏族制や、私たちが犬を「家族」と見なすこと、似ていない人間を同じような人間と見なすこと、こうした社会関係(だけでなく、自然や動物との関係)の拡張性がみられるからである。

 

この点において、「自然に帰れ」ではない在り方で、自然に対して振るわれる科学的収奪を抜け出すことで、自然世界から人間社会に向かう負のフィードバックを制御し、正のフィードバックの関係を「想像」することも可能になるのではないか。

 

 

また、東は、これまでの「資本制=ネーション=ステート」のような三位一体の社会構成体に、「強制性」を見出している。つまり、“ある土地に生まれ、ある国の成員になったからには、緊急事態のときには国家に命を差し出さねばならない”ということである。ヘーゲル哲学を、あえて安直に解釈すれば、「国家」における自己同一化は、この強制力を受け入れることだ。

 

20世紀後半から、あるいは今日にかけて、いわゆるリベラルな考えを持つ理論家たちは、こうした「国家」に抗するものとして、ある種ヘーゲル哲学における「国家」の手前にある「市民社会」の領域に撤退し、それを脱国境化させることに力を注いできた(メアリー・カルドーの『グローバル市民社会』などはその典型であろう)。しかし、東は、さらに二歩ほど撤退し、さらに「家族」概念を哲学的に拡張しようとしたということだろう。

 

 

さらに、この「家族」概念は、「根無し」であることが、ある種、「資本制=ネーション=ステート」の認識のフレームから自由であるという意味で積極的なものへ転化され、アレントのいうような「根を絶たれたということは、他者によって認められ、保護された場所を世界にもっていない」という「根無し」のネガティヴな側面を超え出ようとするポテンシャルを持っている。あるいは、これは「根無し」というよりも、根を多方面へと増殖させていくイメージだろう(ドゥルーズ哲学の「リゾーム」のように)。

 

「この私」を手放さずに、闇から一歩だけ外へ

 

ともあれ、そうした動きのイメージだけでなく、この拡張性の運動には、自然からの負のフィードバックをも正のフィードバックへと転換させるような力があるように思える。それは、自然に対して、拡張的に「家族」として、また「収奪」ではなく、「贈与」の観点から触れるものであるだろう。

 

私たちにとって必要な技術的・科学的な進歩とは、「収奪」のために応用されるものでなく、「贈与」や関係性の拡張のために応用しうるものとなりうるのが21世紀ではないのか。20世紀の「極端さ」が示したように、「収奪」や「商品交換」のなかだけで定義されるような「デラシネ」(あるいは「疎外」の問題)人間の生き方についての理解を維持・反復しようとすることではなく、人間性の回復ないしは拡張のために、すでに終わった「資本制=ネーション=ステート」の外側に一歩出ようとすることが必要なのではないか。

 

その際に、過去の時代がまったく無意味になるということはない。一つ意味があったことを取り上げれば、「個人」をどう捉えるかという問題である。それは、簡単にいえば、歴史的過程の段階のなかで相対化されるone of themとしての自分とかけがえのない一回的な生き方を送る自分との分裂である。後者の自分は、前者の自分によって相対化されるが、同時に、後者の自分は前者の自分のあり方やそれを取り囲む社会環境をも相対化するような、複雑にねじれたメンタリティを内包している。これが近代的自我の問題であった。

 

しかし、すでに終わってしまった領域のなかにある前者の問題に対峙して思い悩む必要もないのかもしれない。前者の自分とその社会において後者の「この私」は、「根無し」や「疎外」と表裏一体の実存のようなものを生み出す精神的な原動力であり、ある種の“病質的”な自我の内面を形づくってきた“元凶”のようなものであったともいえるだろう。

 

黄昏を超えてしまった「資本制=ネーション=ステート」の外側に一歩出ようとするとき、「この私」を捨て去る必要はないだろう。ただ、それが対抗軸として持っていたもう一人の自分という対照的な自己像がなくなるわけであるから、「この私」だけではナルシシズムに陥るだろう。僕は、このとき、「家族」の拡張性にあるような、ある種の「他者」を同じようなものとして、また、かけがえのない「家族」として関係するようなスタンスが重要になるのではないかと思う。このとき「この私」という古き良きメンタリティは、新しいパートナーと見つけることであり、そのとき、自己分裂に悩んだ「この私」は、まったく異なるような自己像を手に入れることができるかもしれない。

 

 

こうした見方のうえに立って、上編のほうの議論に戻れば、決して、近代は「短い20世紀」のはじまり以来、その人間性への信頼を解体し続けてきた時代であったと診断する必要もなくなると僕は思う。というのも、その時代は、救いを求める「この私」という苦しみを生き続けてきた時代であり、それは確かに「没落」や「喪失」などの経験と絡まり合うこともあっただろうが、そうした「根無し」的な経験と同時に、表層的な(19世紀的)近代的人間観への信仰を捨てて、深いところでは「この私」というところにしがみついて、何かを次の時代に引き渡そうとしていた時代であったように見えるからである。

 

(松井信之)