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沖縄県知事選―アイデンティティ、未来、過去

遅ればせながら、玉城デニー氏当選について。

  

期日前投票数が過去最高の40万人超。投票率は63.24%。

 

争点は、日本全体の70%の米軍施設が集中している状況下で、新たに辺野古に基地を(日本の費用で)移設することの是非であった。ここで、「70%」という数字について、米軍専用施設だけではなく、日米共同利用しているのだから「過剰負担」のイメージを振りまくのは誤りであるという議論がある。

 

しかし、数字だけを切り離して沖縄の置かれた現状に問題がないことを正当化するのは、沖縄の人々が置かれている基地がある生活環境のなかで被る苦痛や不安に対して持つ「70%」という数字の解釈的な意味や象徴性などを考慮しない乱暴なものであろう。

 

くわえて、基地負担をしているのは沖縄だけでなく、佐世保や横須賀などもそうであるという反論もあるが、それは沖縄にとっての戦争の記憶という「意味」のレベルや沖縄に占める米軍基地の規模という「数字」のレベルで比較しても、沖縄のほうに負荷が大きいことを度外視するものだろう。また、「佐世保や横須賀で米兵が事件を起こしても、全く反基地感情が起きない」(竹田恒泰)というのも、沖縄が直面している問題を特殊な事例として扱って、それが争点にならざるをえない歴史的・構造的な背景を敢えて見ないようにするものであろう。

 

また、マスコミ(沖縄タイムズや琉球新報)が「煽る」から沖縄の基地問題だけが過剰にクローズアップされて反基地感情が高まるのだとして、「洗脳」という切り口からこの問題の片づけようとする議論もある。「反対意見の報道比率が少ない」ということを言いたいのであろうが、これは、沖縄の人々の大多数が基地問題に対して「否」と明言しているわけではなく、違和感と隣り合わせのなかで、なかには経済的理由から容認する人々がおり、また、政治的立場の理由から反対する人々がおり、お互いに迷いながら、分断されていく社会を生きているという実相に思い至らないという点で問題であろう。「何かおかしい」というところから様々な立場が生まれたり、流れに身を任せたり、それに言葉を与えたりという営みを「煽る」という一言で片づけてしまえる神経には、眉をひそめざるを得ない。

 

ともあれ、玉城デニー氏の勝因は、新基地移設に明確に「ノー」という表現をしつづけてきたことにある。もちろん、そこには故翁長雄志前知事の「弔い」という「象徴性」が加わったことが大きかったことも加えられる。それに対して、佐喜真淳さんは、沖縄の基地問題に関する自主決定権に関しては、(本人の考えは別として)、党利党略上、終始「ごにょごにょ」といった感じて、その代わりに、なぜか携帯電話の料金を下げるとか「女性の質の上げる」とか、論点を分散化させようと企てた結果として、故翁長さんの後に、どういう方向へと沖縄が向かっていくべきなのかという意味づけを完全に見失っていたように見える。

 

この意味で、今回の沖縄県知事選は、翁長前知事の意思からの連続性というところに意識が向いたものであったように思える。

 

「携帯代が下がればうれしいよね?」「女性の質が上げるのはいいことだよね?」(そもそも誰がどんな権限で「質」を定義しているのか、とても曖昧であるし、議論をつめないまま「女性の質を上げる」とか言い始めると、「女性の質は低い」と言っているメッセージしか与えないでしょう。)というスタンスで佐喜真さんは、生活者目線に立とうとしたんでしょうけれども、生活を見る目があまりに些末なものであり、また、取ってつけたようなもので、「いったいどんな信念をもとに基地問題と携帯問題・女性問題を天秤にかけているのか?」、佐喜真陣営は、こういう印象を少なからぬ県民に与えたということでしょう。また、それらの政策提言の「軽さ」が、「ポスト翁長」という「象徴選挙」での大敗を招いたのではないだろうか。

 

今回の沖縄県知事選における玉城vs.佐喜真という対立構造は(その他の立候補者には申し訳ないが)、経済あっての沖縄社会か、政治的価値あっての沖縄社会か、という選択へと結びつくものであったように思います。つまり、これは沖縄の未来を、経済的利益を優先にして考えるのか、それとも、まず自分たちの政治的価値選択を出発点として、歴史や経済や社会問題に取り組んでいくのか、こういう屋台骨をはっきりさせたいという願望が垣間見られたものであった。 

 

しばしば、沖縄の独自の「アイデンティティ」を形成する必要があるということが翁長さんの時代から言われてきた(2014年知事選における「イデオロギーよりアイデンティティ」)。しかし、その出発点には、「民族的アイデンティティ」ではなく、「政治的アイデンティティ」をどうするかという問題があったとみるべきだろう。前者は、特定の生活環境のなかで、独自の言語や生活慣習に基づいて形成される共通意識であるが、後者は、独自な政治的価値の選択に基づくアイデンティティである。哲学者Charles Taylorは、これを、「民族的アイデンティティ(ethnic identity)]に対する「政治的アイデンティティアイデンティティ(political identity)」というふうにまとめている。彼は、カナダのケベックで、カナダを「独自の社会(distinct society)」としてイギリス系のマジョリティ社会に承認を求める論陣を張るものの一人である。

 

中央政府に対して自主的な決定権を主張するときに、「民族的アイデンティティ」のみで説得を試みることには限界がある。なぜなら、それは狭い範囲でしか通用しないものであり、伝統的な文化風習がオーラル・コミュニケーションの文脈で薄れてしまえば、力を失ってしまう。それに対して、「政治的アイデンティティ」は、もっと包摂的に、自分たちが抱える問題を解決しようとする集合的な意志や議論、また、自分たちが重要であると考えることについての共通感覚が議論や実践の過程で育ってくることと切り離すことができない。しかも、その過程が沖縄だけに限らず、そのほかの地域に対しても、重要な問題提起や視点や実践モデルを示すことを通じて、共感・連帯・模倣・創造を生み出すという相乗効果を持つのではないか。

 

 

西欧的な価値としての人権や民主主義が「普遍」のものとして、しかし、その反面で政治的暴力を伴うかたちで広がったのが近代の国際社会であったとすれば、沖縄(それにケベック、あるいは、その他の抑圧に苦しむ地域)が独自の「政治的アイデンティティ」を実践のなかから生み出していくことが、新たな「普遍」の運動を担うものである。白永瑞の『共生への道と核心現場』は、これらの周縁化された地域の人々による抑圧に抗する実践が新たな構造転換をもたらすものであることを示している。それは、政治的暴力を伴う価値の伝播ではなく、暴力への抵抗を通じた価値の共有なのである。 

とにかく、今回の沖縄県知事選で玉城さんは翁長さんの意志を引き継いで、より明確に「沖縄に必要なのは政治的アイデンティティである」ことを軸として、基地移設問題を中心に据えて、基地問題についての態度決定なくして沖縄の生活を向上させることもできないことを明確にしたと言える。もはや、経済か社会かという二項対立では捉えられないのである。しかし、もちろん、それが「結論」ではなく、いわば「内に対して独自かつ外に対して連帯的な社会」の実現に向けた出発点となっていくことを目指す自治のための様々な実践が求められる。この意味で、沖縄にとっての「アイデンティティ」は、未来へ向けられたものであり、その未来から「過去」を再び見つめなおすものとなりうる。イタリアの哲学者ベネデット・クローチェの有名な言葉「あらゆる歴史は現代史である」をもじっていえば、「あらゆる過去は未来における過去である」と言えるだろう。未来へ向けられた実践が過去を再び語ることを可能にするのである。

(松井信之)