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「誤配」の仕組みとしてのベーシックインカム――トマス・モア、ルドガー・ブレグマン、東浩紀

 オランダのジャーナリストであり歴史家であるルドガー・ブレグマンの『隷属なき道』(2017年)を読んだ。Wikipediaで著者情報を見てもわかるように、彼は、ベーシックインカムや週15時間労働(一日3時間!)のような社会政策を積極的に推進する論陣を張っている。彼が書いた同書の原タイトルは、Utopia for Realists。トマス・モアが『ユートピア』が出版されたのが1516年であるが、ブレグマンは、約500年を経てに「現実主義者のための」という形容を冠しててユートピア論を復活させようとした、と言えるだろう。

 

モアも同書のなかでベーシックインカム思想を提示しており、それは貧困に端を発する犯罪(強盗)を減らすという利点が挙げられている。しかし、モアの議論は「ユートピア」のヴィジョンが実際の社会状況が非常に問題含みであることを発見させる装置としては機能したかもしれないが、どこまで現実化しうるものとして考えられるのかは怪しい。だが、もはや想像でのみ語れない現実性を帯びた政策オプションとして、ベーシックインカムや労働中心社会からの脱却を論じることができる時代になったことを、ブレグマンの著作は示している。

 

ブレグマンの著作出版と同時期には、2016年には、スイスにおいて国家レベルでベーシックインカム制度の導入の是非を問う国民投票が行われたが、そこではスイス在住の成人に対して月々2500フラン(27万円相当)を支給し、子どもにも625フラン(7万円くらい)を支給するという案であった。しかし、この国民投票では、賛成は2割にとどまり、反対が約8割という結果になり、実現することはなかった。

 

ベーシックインカムの導入に際して、財源の問題や既存の社会保障制度との関係をどう見直すかなどテクニカルな問題が存在する。それについては専門家に任せるとして、ここでは労働規範というか、いま杉田論文で話題の「生産性」のような問題が必ずと言っていいほど持ち上がることに注目してみよう。要するに、働かなくても金をもらえるならモラルハザードが生じるということだ。もう少しきつくいえば、共同体に不要な人間を生む、ということである。

 

ブレグマンの本で目を引くのは、そうした道徳観念に何の根拠もないということを示したことである。たとえば、イギリスで導入された悪名高いスピーナムランド法(1795年)という貧困者向けの分配制度は、典型的な貧困者向けの対策の失敗例とみなされがちだ。しかし、実際にそれによって貧困問題が悪化したのは、同時並行して進められていた自由主義的経済政策の強硬とそれがさらに貧者を追い詰める状況を作り出したからだ、とブレグマンは喝破している。スピーナムランド法をやり玉に挙げることで自由主義経済政策の失敗から目をそらしているのである。これは、自由主義経済政策が表面では労働規範の重要性を説きながら、裏口からモラルハザードが生み出されるような状況を招き入れているようなものだ。

 

また、マルクス主義にも同様の問題がある。マルクス主義は、労働することを人間にとって第一の中心価値であるという見方を核としている。もしそうであるなら、ベーシックインカムや貧困対策は、労働能力を疎外するがゆえに反対するべきものであるということになる。だが実際のところ、ブレグマンが示すのは、カナダ、イギリス、アフリカ諸国で実験的に導入された無条件の資金援助は、勤労意欲を下げることなく、むしろそれを上げるというデータである。とはいえ、マルクス本人には、割とロマン主義的なヴィジョンがあり、労働という苦役から解放された暁には、社会は芸術的表現にいそしむことができるというようなユートピアが念頭に置かれているようだ。

 

ともあれ、労働生産性を中心にするのではなく、分配・贈与を中心として社会政策を考えなければならない——ブレグマンの著作はこのことを示唆する。勤労意欲を自明の前提として社会はうまく機能しえない。むしろ、分配・贈与を中心にすることで、自発的な労働意欲の動機づけに結びつき、さらに分配しないことで発生する社会的コストを未然に防ぐことができる。アベノミクス下で擦りまくった年80兆円規模のお金は、「インフレ誘導」などと言っているが、分配しないことで私たちが支払っている社会的コストなのではないだろうか。

 

 

とはいえ、ブレグマンの主張は、社会的機能の合理化ということ以上に、ヒューマニズムとしてベーシックインカムや週15時間労働を実現しなければならないというものである。そうしたUtopia for Realistsを実現していくためには、これらの政策を実現することがどのようなメッセージを国民に与えるものなのかを同時並行して思想的・哲学的・倫理学的に詰めていくことも必要であろう。ブレグマンが言おうとすることは「働かなくてもいい」ということではない。それは、ベーシックインカムに付随する選択肢なのであって、思想的命題ではない。むしろ、それらは「あなたは自由であり、権利を承認されている」というメッセージを届けるものとならなければならないであろう。とすれば、ベーシックインカムや週15時間労働のような政策は、単に経済効率や貧困問題に関わる専門的アプローチであるのではなく、反復的な儀礼のようなものとして人間の存在意義を承認しつづけるものとなりえるだろう。その儀礼空間におけるメッセージが具体的にある人のどのような生き方を帰結するのかも、認めるものでなければならない。しかし、確実に「自由と承認」のメッセージを届けるものでなければならないのである。もしかしたら、これは東浩紀の言う「誤配」という概念や「無能な父」という概念に近いのではないか。そうであるとすれば、新たな社会政策としてのベーシックインカムや週15時間労働制は、「再分配」や「労働者保護」という名目であるというよりも、「誤配」と「愛」に基づく社会づくりということになるだろう。