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知を共有することの知とは何だろうか:ノーベル賞の意義と限界

近代文明は、産業社会を維持・拡大させるための科学技術の革新なしにはあり得ない。そして、そうした科学技術革新は、様々な分野における発見や研究開発の賜物である。ノーベル賞は、近代文明のこうした成り立ちと固く結びついている。

 

しかし、近代文明の基礎には、それ以前の長大な歴史の蓄積がある。中国文明、古代ギリシア、イスラム文明、そして、ルネサンスなど、近代社会を駆動する技術の成立は一朝一夕ではいかない歴史の蓄積の上にある。先日もノーベル賞受賞で日本人が受賞したということで、メディアが色めきだった。長い基礎研究が社会的に広く認められるということは、もちろん喜ばしいことである。しかし、その認知がただメディアを通じてノーベル賞のお祝いムードのなかでしか形成されないという状況もいかがなものか。今日のメディアは、科学がまずもって共有知であるべきものであるという前提を忘れているのであろう。それは、ニュースを飾る一つの話題でしかない。しかし、ノーベル賞は、技能オリンピックのようなものとは違うはずだ(もちろん、技能オリンピックの目的も技術的な洗練を競い合う中で共有していくとい力学を持っている)。知は、ヒーローのためにあるのではないのだ。

 

とはいえ経済の知、あるいは生物学や物理学の発見と応用、平和のための実践、また新たな文学表現の開拓を取り上げるノーベル賞は、本当に私たちにとっての共有知を形成するための制度基盤としてふさわしいものであり続けることができるのであろうか。科学力の高さだけを認め、共有知のほうに開く文脈を無視することの知的な損失は計り知れないであろう。

 

そして、おそらく、知を共有することができる文脈を新たに構築するような試みに対して、ノーベル賞のような近代的な権威付けのシステムは有効に機能していない。この点は、茂木健一郎氏が「『日本人ノーベル賞でお祭り騒ぎ』メディアの思考停止が目に余る」(https://ironna.jp/article/10888?p=1)というネット記事で示している。同氏によれば、ノーベル賞は、現代のブロックチェーンの仕組みを理論化した「サトシ・ナカモト」のネット論稿を査読対象とはしないし、イーロン・マスクのスペースXやボストンダイナミクス社のロボット開発に対しても賞を与えない。だが、これらの領域で生み出されている知の文脈は、少なからぬ人々にとってノーベル賞で脚光を浴びる知よりも現実の文脈と結びついている。

 

また、2012年に、iPS細胞研究でノーベル生理学・医学賞を受賞した中山伸弥氏に関して言えば、受賞後、研究所での若手研究者たちの非正規問題を発信したが、ノーベル賞は、研究活動を支える具体的な環境については、なんら受賞の中で関知することがない。メディアで取り上げられる華々しい表面も、この裏面に対して注目を促す効果を持っていない。むしろ、そうした知を追求する現場についての理解が深まることは、ニュースの消費のなかで妨げられている。

 

 

多くの人々は、新たな知の発見によって、それが一般的に応用されることを受動的に待っている態度を示していることが気になる。しかし、知は、共有する文脈と切り離すことができない。知を共有する文脈についての知と実践がますます重要になってくるだろう。

(松井信之)