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加藤周一

最近、加藤周一を読んでいる。僕らの世代からすれば、単に「あらゆることを知っていて、政治的に進歩的で、しかし、過ぎ去った時代の知識人」といった雑駁な印象の故人だろう。

 

だが、全くそうではなかった。『日本文学史序説』、『日本人の死生観』、『日本文化の時間と空間』、あるいは新聞に投稿された数々のエッセイ。そのどれもが、過去から現在に届く言葉で綴られている。

 

加藤周一は、とにかく読み、とにかく書いた。主に、西洋文学、日本文学について書いた。

 

しかし、「文学」は限りなく「文化」という概念と重なり合っていた。なぜなら、言葉を通じた表現が私たちが同じように感じること、あるいは、同じように感じることができること、その可能性を伝えるからである。しかし、「表現」は単に書かれたものではなく、演劇や絵画も含む。なぜなら、それらは「同じように感じる(感じうる)」ことを示すからだ。

 

加藤周一は、「私たちが感じていること」の先にある「私たちが感じうること」のほうへと、言葉の可能性を賭けていたように思える。だから、加藤の言葉は、その「文学史」の素養を通じて絶えず未来を指し示すことで、僕らには僕ら自身の時代のなかで示すべきことがあるというという、可能性・意志・創造性が混ざり合った快楽を与える力を持っている。

 

彼の言葉には、何ら「情報」として有益なものとしての合理性は存在しない。彼の言葉は、ノウハウとしての情報を伝える道具ではない。役に立つという類のものではないのだ。

 

このブログに何かを書いても、何かの役に立つわけではないかもしれない。加藤の言葉のごとく、その濃密な思想を映し出すわけではないが、何か「同じように感じることができる」ということを映しだすことはできるのではないか。

 

考え、望んだこと。疑い、信じたこと。愛し、憎んだこと――後悔のないようにただそれらを書く。あるいは、後悔のないようにその痕跡を映し出そうとする。

 

僕らはそれぞれの道を歩むだろう。しかし、それぞれの人生の有様は、ひとつの時代の中にある。何か書けば、それが時代を映し出しもする。

 

一点の曇りなく後悔がないわけではない。しかし、そのようにしか考えられなかった僕らの時代の証言として、未来に届けようとする言葉が読む人に届くように願うほかない。

 

書く媒体がブログなだけに、拙速な語り口にもなろうが、断片の思考を集めて届けつづけるしかない。ブログのような媒体は、思考の習慣を育てるのには、あるいは不向きなのだろう。

 

客気にはやる言葉、生硬でまとまりのない雑記になるだろう。後になって読み返せば、きっと苦々しくもなろうが、それもこの時代に負っている思考の習慣の落ち着きのなさといって開き直ってみることもできる。

 

ただ、後悔だけはないように。

 

そして、「同じように感じうること」に少しでも触れられるように――僕らの時代には僕らの仕方で/加藤周一の残した言葉とともに。

(松井信之)