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杉田水脈のクソ発言が呼んだクソリプ群

自民党の国会議員杉田水脈(すぎた みお)が『新潮45』(8月号)に寄稿した論文が幅広い反響を読んだことは記憶に新しい。

杉田論文に関して、小説家の星野智幸さんのツイートぶら下がっているリプライがあまりに酷かったのでまとめてみることにした。

杉田論文は「リベラル勢力によるLGBT政策」を批判的に論じることによって、リベラルの「欺瞞性」や「反日」的性質をあぶり出そうと試みたもの。性的少数者にまつわる弱者利権を貪るために「差別 差別」と騒ぎ立て、「弱者をまもれ!」などといった「キレイゴト」を並べて支持を伸ばそうとするリベラル政治家や反日メディアは恥を知れ、というのが杉田論文のだいたいの骨子である。ようはネトウヨ文化の産物である。無知と偏見と馬鹿げた被害妄想からなる空疎な議論であり、「LGBTは生産性がないから」等の文言でマイノリティの尊厳をしっかりと踏みつけるものだ。

星野智幸さんは杉田論文がどういう「効果」を持つものであったかについて、実例をあげてきっちり批判してる。杉田の「生産性ない」発言の無神経さ、問題点はこの星野さんのツイートに集約されているとも思う。だからこそ、クソリプ群が雲霞のごとく沸き起こったとも言える。

 

言葉は暴力たり得る、というのはヘイトスピーチの横溢を経験した社会における常識である。「弱者を甘やかすな」に類することを書かれたり、税金を使うなといったまるで二級市民であるかのような書かれ方をしたり、マイノリティの権利主張を全部聞いていると社会が崩壊する、といった無知と偏見に基づく無神経な妄想を延々と読まされることが当事者にとって苦痛であることは想像にかたくない。杉田論文は、その論文の主張自体がはらむ暴力性のみならず、それが社会的に受け入れられることに伴う暴力性も併せ持つ。程度の差こそあれ、当事者の中には「こんな奴らが多数派の社会で生きていけないよ」と感じた人も多いはずである。

さて、どういう「反論」が寄せられたのか。

以下、目立つものをいくつかピックアップし、それぞれに批判的考察を加えたい。そうすることで、杉田水脈という人間を国会に送り出し、安倍晋三の長期政権を許す社会の空気というものが見えてくるように思うからである。不愉快なものも多いが、現実にリアルタイムで害をもたらすものなのだから無視するわけにはいかない。なるべく多くのケースを分析したいがさすがに限りがある。ここでは6つのリプライを取り上げた。

まずは、早い段階で投稿されていた「りあん 風」なる人物による次のようなリプライである。(https://twitter.com/rian_fu1/status/1042390513964351488

 

「この社会は厳しいものなんだから甘えてはいけない」という薄っぺらい通俗道徳に依拠した議論であり、杉田自身も論文内で似たようなことを書いている。平凡で、乱暴で、冷酷な見解だが、それが現在の日本社会におけるごくメジャーなオピニンなのかもしれない。またこうした浅薄かつ冷酷な見解が、文字面の上では丁寧に表現されているあたり、粗暴性とある種の「倫理性」が混在した日本社会のひとつの側面を垣間見た気がする。「マナーを守れない人は死んでください」的なアレである。過労死は自己責任と言い放ったZOZOTOWNの実業家のことを想起した人もいると思う。ああいった自己責任原理主義者とどう対峙するのかこそ最も重要なテーマと言えるが、ここは先を急ぐ。

 

「読まない自由」

次に見るのは「嫌なら読むな」というタイプの自己責任論である。@_yuuichi_0502 2018年9月20日

 

こうした見解は本当に多くてうんざりする。TVでもSNSでもそうだが、情報とは「遭遇」するものであり、見たくないなら見るなで済まされる問題ではない。このツイートを成り立たせるのは「読むのは自由意志に基づく行為なのだからウダウダ文句いうな」という発想であろう。これは「自由には責任が伴うのだ」というそれ自体は妥当な倫理観に依拠しているのであるが、「偶然に飛び込んでくる」という情報の性質を無視している。結果、被害者に事前の自衛を求め、加害者を免責する意図を持った主張をしているわけで、結局のところはただの無価値な発言、つまりクソリプである。

繰り返すが、星野さんのツイートに寄せられたこのリプライが「クソリプ」たる所以は、「読まない自由」などという虚構に全面的に依拠している点である。「におい」や「音」を考えれば分かりやすいが、情報というものは意図せずとも入ってくる。そこらじゅうの書店に置かれている雑誌に掲載されている文章である。あちこちで批判が起きてしかるべきであり、様々な媒体で批判記事が書かれるのも自然のなりゆきとしか言いようがない。そして人はこうした差別的で人格破壊的な文章に「遭遇」するのである。そうした現状を踏まえれば「読まない自由」などというものは詭弁であり、いちゃんもんを付けるために導入された虚構にすぎないとことは分かりそうなことである。

ところが、こうした見解を何の疑いもなく開陳できてしまう人はユーイチ改だけではない。

「好き好んで読んだ」のだからそれによって受けた精神的苦痛の責任は読んだ本人にある、という議論である。自己責任論の偏在性を感じさせる。というか、何らかの支配的な体系(この場合は日本におけるジェンダー観ないし家族観)と衝突するマイナーな意見や行動をお手軽に叩くためのロジックとしての自己責任論は何にでも張り付く。(https://twitter.com/suv12oooo/status/1042763625729937409)

ラテン系おにいさん、たのんます。

「読まないという選択もあったはずだ。なのにあなたは読むことを選んだのだから文句を言うな」という議論それ自体、批評という行為をまったく度外視した暴論である。入場料を払って鑑賞した映画が予想を大きく下回るクオリティであった場合や、自分で選んで入った食堂の飯がまずかった場合を想定してみるとよい。「好き好んで」選んだのだから文句を言うべきでない、などという意見は即座に否定されるであろう。

ところがそうはならない。リベラルな奴をバカにしたい、左翼っぽいこと言ってる奴を嘲笑したい、カシコをおちょくりたいという情念は常識や論理をやすやすと踏み倒す力を持っているのかもしれない。

あるいは「ガチで頼れるラテン系おにいさん」は、死にたくなるほど酷い言葉に遭遇するなどということは起き得ないと思っているのだろうか。だとするとかなり楽観的な社会観の持ち主と言わねばならない。所詮は言葉というけれども、言葉は行動を生み、この社会ではどんな悲惨も理不尽なことも起こり得る。つまり言葉で人を殺すことも可能である。歴史上起きた多くの怪物的で破壊的な暴力というの「言葉」によって引き起こされたものである。たとえば、関東大震災の混乱中で広まった「朝鮮人が井戸に毒を入れた」という「言葉」がどのように人間を駆り立てのか。そしてその結果として何が起きたのか。こうしたことは現代日本に生きる者の最低限の基礎教養のはずだ。たのんますよ、おにいさん。

次のツイートは軽薄でゲーム的な独特の文体でもって私に強い印象を残したものである。決してリツートで拡散はあまりされていないし、Like数もたかが知れている。にも関わらず、この場でクソリプとして真剣に論評を加えるのは、こうした揶揄的で、遊戯的で、侮蔑冷笑的に用いられる言葉が、まっとうで建設的な見解に対して投げつけられることで言説空間を陰湿で閉鎖的な場に変えてしまっている事態が腹立たしいからである。(https://twitter.com/el8gMeepJd2KadL/status/1042459708605358080

私だって被害者なんだ、という説。

 

このツイートは、傷ついているのはマイノリティだけではない、自分「も」被害者である、という言論戦略を採用している。いわば、マジョリティ側からの「弱者」ポジションを求めるものと解釈することができる。差別や偏見の問題を、被害を受ける側の「痛み」の問題として語る際には、こうした反応が起きることになる。「俺たちだって傷ついているのだ」「どうしてあいつらだけチヤホヤされるのだ」といった不遇感や不公正さの感覚に訴えた言説である。

 しかし、このツイートに見られる( )やwといった記号は、投稿者が自身の主張が依拠するように見える「公正さの感覚」をシニシズムでもって嗤っていることを意味する。つまり、ここでは、公正さの感覚はすっかり形骸化し、真摯な問題提起を揶揄する言説を言語ゲーム的に生成するための媒体となってしまっていると言える。

シニカルな文体は、「知らんけどね」「どうでもいいけどね」という留保で飾られ、発言者はいつでも「本気で言ってるわけでない」というポーズをとることができる。つまり構造的には、本人は自身の発言にともなう責任から免責されることになる。「ぱすた」としては、あくまでネタで、胡散臭いキレイゴトを言っているリベラル知識人をからかってやっただけで、「ネタにマジレスされても困るんだよね〜ww」ということになるのであろう。

 星野氏のツイートによって体調不良になったというのは明らかに嘘だとして、嘘を語って人を攻撃するという振る舞いの責任はツイート内に散りばめられた「w」によって解消されてしまう。「嘘は言わない」程度の当たり前の倫理も「知らんけどね」と無効化されている。恥を知らない言論戦略としか言いようがないが、サヨクを困らせるためなら手段を選ばないクラスタとはこういう連中である。

 「ぱすた」は別のところで嫌韓・嫌中ととれる発言や、在日コリアンなどの民族的マイノリティを揶揄するような発言、元慰安婦女性を誹謗中傷するような発言もしているが、それも「サヨクを困らせるため」にやっている節がある。(こうした反リベラル症候群についてはまた論じたいと思う。)

こうしたゲーム感覚でマイノリティ叩きに露悪的に加担する言説は、徹底的に批判される必要がある。この人を改心させるためでも、何らかの合意に到達するためでない。不正義が不正義のまま放置されている言説環境が、そこで真摯に物事を考え、言葉を紡ごうとする人間にとって有害だと思うからである。これは社会の現在と未来に関わる問題である。

次に見るのはDuke13。麻生太郎と同じく『ゴルゴ13』の愛読者なのだろうか。想像性のかけらもないおうむ返し的なクソリプである。「左翼マスゴミ」とか言っているので、どっかのネトウヨだろう。https://twitter.com/land560/status/1042602757612437504

左翼マスゴミがー

「一人の人間を追い込む言論」の箇所にある「一人」とは杉田水脈のことを指す。はは。よってたかかって一人の人間を批判するのはよくないですよ〜、という表面的には倫理的な主張の形式をとっているが、そもそも杉田が集中砲火を浴びているのは、彼女が世の中に提起した論文それ自体が暴力だったからであり、杉田が説明責任を回避し続けているからである。その現実をオミットした上で初めて成立するDuke13のリプライは、倫理面のみならず論理的にも空虚な文章と言わねばならない。

論理や常識を無視してまで何らかの公論的性格の強い文章を公表する、というのは一般的には相当の心理的ハードルがあるものと推測するが、それほどまでにDuke13の「左翼憎し」の情念は強烈なのであろう。

 

やや脱線するが、こうした情念の輪郭について考察すべく、Duke13の自己紹介文を考察してみる。彼のツイッタープロフィールはこのような仕上がりになっていた。

 

あーなるほどね。

 

見ての通り典型的なネトウヨである。このプロフィールについても少しばかり分析を加えたい。

おそらく「日本人外人問わず日本が好きな人々が好き」という文言は彼の偽りのない心情であろう。これは排外主義者の常套句である。好きか嫌いか、これしかない。
Duke13は、たとえば「レイシスト」というレッテルを貼られることを頑なに拒むであろう。そして「私は国籍や肌の色や民族性を理由に特定の人々を嫌悪するわけではない」と主張するだろう。彼にとって、自分を不愉快な気持ちにさせるかそうでないかが唯一の判断基準であり、彼にとって「日本が好き」ということが観察可能な形で表現されることが重要な意味を持つ。(観察可能というのは、たとえば祝日に日の丸を掲げるとか、神社参拝を欠かさないとかそういう意味である。)

 なお、この「日本が好きか嫌いか」という際の「日本」というのは日本社会の現状を指す。彼らが愛するのはありのままの「いま・ここ」の日本であり、そこには政権も含まれれば、日本社会で流通しているさまざなな慣習や「伝統的」とされている事柄、支配的文化全体が含まれる。「反日」というのは、今ある日本への批判的な言及に対して付与される形容詞的レッテルである。

仮に、在日コリアンのジャーナリストが日本における出入国管理局の業務の実態について批判的アングルから報じたとするなら、その報道がどれほど現状矯正的で建設的で公益に資するものであったとしても、ネトウヨ的視点からすれば「反日」的ということになるだろう。一旦「反日」認定がなされれば、「祖国にかえれ」等の典型的なヘイトスピーチがごく自然に発せられるようになる。日本国籍者が同様な内容の記事を書いたとしても「反日」「反日勢力のスパイ」「なりすまし日本人」といったレッテルを貼りは免れないであろう。

 このように「リベラル嫌い」と「レイシスト」との距離はかなり近い。自己認識としてはレイシストではなくても、果たしている機能としては典型的レイシストたりうるのであり、有害性という点においてかわるところはない。レイシスト自認は希薄で、明示的なヘイトスピーチを日常的にしていないような「普通の」人であっても機会さえあれば典型的なレイシズムを容易に実践することがあり得る、ということだ。ツイッター上ではただのネトウヨである「Duke13」も、その辺で普通に働いている「普通の日本人」だろう。

やや脇道にそれた。最後に、「正義のくまモンになりたい」さんの意見を取り上げる。これはあまり「Like」数はあまりないが、長々と書かれているぶん、杉田を擁護しようとする層の主張がよく分かる。要するに、こうした層の主張というのは結局のところ「世間様に文句をいうな」の一言に集約されるのである。

 

 

ヘイトくまもん

「正義のくまモンになりたい」と思うのは自由だが、ちょっとこれは営業妨害なのではないか。くまモンの完全にキャラが崩壊してしまっているように思う。

 

「気に入らない言論を封殺する事」の危険性を云々しているが、これはいろいろな意味で的外れである。まず、気に入る入らない、好きか嫌いかという以前にヘイトスピーチ等の批判されてしかるべき言論というものは一般的に存在する。放火や殺人をしてはいけないのは「気に入らない」からという水準ではなく、端的にそれらが公的な秩序を破壊し、被害者を生むからであり、故に犯罪とされているからである。

 

ヘイトスピーチとまでいかなくても、バカで無神経な発言をしていれば「黙れバカ」等の叱責を受けるのは当然であり、それは自由の代償として理解されねばならない。「封殺」などと言葉を用いているが、どんなバカげたリプライでもする分には自由だ。ただ恥を晒すのみである。要するに、しょせんクマである。

 

とはいえ、まぁ、それは無理な注文というものだろう。「正義のくまモンになりたい」さんのプロフィールを見るとそんな気持ちにさせられる。

 

「オールドメディアの偏向報道に怒りを覚え」てネットで真実に目覚め、リベラル叩きに邁進しているのであろう。「間違った政策」というのはたとえば「移民受け入れ」や「ヘイトスピーチ規制法」や「日本と韓国の通商上の友好関係を維持する」といったことを意味するものと推測できる。こうしたアカウントが意見をいうのは、概して、政権に批判的でリベラルな印象を与える見解に対してのみである。今回も、杉田論文の被害者の痛みによりそいつつ杉田論文を告発した星野さんのリベラルな振る舞いに「怒り」を感じたのであろう。

 

このクソリプ論評を閉じるに当たって最後にすこし「怒り」について考察してみようと思う。

 

「怒り」というのは政治運動における重要なファクターである。言葉も人を動かすという意味で運動の一部である。

怒りの中心性というのは、排外主義的な風潮ならびにそれに抗うリベラル側に共通して言えることだが、私は前者の怒りは社会破壊的な効果を持ち、後者の怒りは社会構成的な効果を持つと考えている。ふたつの怒りを分かつ指標となるのは、怒りの元となる現状認識の「質」であろう。つまり、現状認識がはなはだ不正確で妄想的なものなのか、それとも相対的に正確なもので、変化に対して開かれているか、という点である。

2000年代以降の日本における右派の言説は歴史修正主義・排外主義・新自由主義の3点セットで構成されるのがトレンドだが、そうした右派言説が「怒る」のは、「世界に広まる慰安婦デマ」であり「反日勢力に支配されたメディア」であり「生活保護にたかる自堕落な連中」のイメージであるが、そうしたジメージが実態に即したものでないことは明白である。彼らは現実を見ずに、自身の歪んだ社会観を投影してそうした偽イメージを作り上げ、それへの「怒り」を扇動し、募らせる。言うなれば、怒りが完全に空振りしている。そうした実態に即さない怒りはただ偏見を助長し、社会を成り立たせる公助の制度や精神を破壊する。多くの人が感じる閉塞感の背景にはこうした社会破壊的な怒りがあるように思える。 

以上、小説家星野智幸さんの問題提起に対して寄せられたリプライの紹介と考察を終える。

まとめると、杉田水脈という自民党代議士のやりたいことはリベラル/左翼叩きである。「弱者をまもれ」や「人権を大切に」等の主張をする人を「偽善者」として名指して糾弾し嘲笑することは、結局のところ、公正な社会を成り立たせる理念それ自体を破壊する。

「弱者やマイノリティが自分たちの立場の弱さを利用して、権利を主張し何らかの不当な利益を得ている」というマジョリティ側の不遇感覚が杉田のような政治家を世に送り出しているという現状がある。なにせ杉田水脈は自民党が比例中国ブロックの名簿1位に置くような「期待の新人」であり、見てきたように彼女の主張には何があっても彼女を支持しようとする熱心な賛同者がいる。杉田の無責任かつ冷酷な議論というのは、社会の雰囲気と無視できない程度にまでシンクロしたものだろう。

ゴミはどこにでも落ちている。この社会を、少しでも公正で住み良い場所にしていくために、地道にドブさらい的な活動をする必要がある。言わずものがだが、ヘイトスピーチを生む社会とはヘイトスピーチを黙認する社会でもある。黙認するか介入するか。それは一瞬一瞬の「あなた」次第である。できることをできるうちにやっていくのが大きな意味を持つと思うので、ゴミのようなクソリプを掃き集めてみた次第である。

(文責:伊藤健一郎/ Twitter @itokenichiro