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物をこう人

 ヨーロッパで生活していると、路上でお金を求める人たちに出会う。ヨーロッパで生活しているとと書いたが、私が住んでいたのはクロアチアというヨーロッパの片隅であったし、せいぜい一年に満たない期間である。ともかく、この人々は一様ではない。路端にうずくまり静かに恵みをこう人、赤ちゃんを抱えて歩きながらお金を求める人、旅行者にカジュアルに小銭はあるか問う人、バス停でコインを集めながら回っている人。一軒ずつ玄関を叩いて日々の糧を求める人もいる。

 

 この人々に出会った時、私は立ちすくむ。どうするべきか。理屈を考えることはいくらでもできる。渡すのが正しいのか、渡さないのが正しいのか。あげたら、「本人のためにならない」(これはいくらでも反論がある)、相手との関係が「施す者」と「施される者」になってしまう(こちらはより深刻)。あげなければその人々は今日を生きられず、飢え死にするかもしれない。

 

 あげたら本人のためにならないと言ったところで、あげなければ本人のためになるわけではない。「本人のためにならない」の背後には、「真面目に働く意志があれば誰でも賃金を得て生活できる」システムが機能しているという前提がある。そんなものは今のところない。まして路上で小額のお金を求める人たちは、そもそも労働市場での「公平な」競争に参入することがはじめから許可されない人々であることも多い。本人のためにならないからあげないのであれば、あるいはよりアンダーグラウンドな方法に生きのびる術を求めるだろう。本人のためにはならない。正しくない。

 

 ではお金をあげたら本人のためになるのか。その人々はそうやって生きていく。我々は「施し」をする。それは正当な人間関係といえるだろうか。社会のあり方に正しさを求めるのであれば、対等な私人同士で関係を取り結ぶことが前提となる近代資本主義社会において、その関係は正しいとは言えない。諸個人が十全な個人として独立性を保ちながら、等しく社会へ参加することを理想とする社会契約という理念からも正しいとは言えない。つまり、この人々に出会った時に、お金を施すのは正しくないし、施さないのも正しくない。お金をこう人とそれ以外の人々に、構造的に分かれている社会は正しくない。

 

 これは理屈であって、現実ではない。限定的な選択の上に正しさを求める行為自体が、少なくとも厳密さと正当性を欠いている。現実には物乞いをする人々にも色々な事情がある。しかし、「色々な事情がある」という過度に一般化した、ほとんど意味を失うところまで薄めた言葉では、現実を表現することができていない。つまりそれも理屈である。

 

 現実は例えばこうだ。その人を視界の端に捉えた私は、不自然に前を見据えながら直進していく(そもそも私は人とすれ違う時の自然な目線のあり方をいまだに会得していない)。あるいは、不自然に取り繕った顔をして小銭を渡す。かの人はいつもそうしているのと全く同じように受け取る。どちらを選んでも私には居心地の悪さと罪悪感が残る。

 

 しかしそれとは全く異なった現実もある。例えばこうだ。小銭を求める老婆に声を掛け、体を気遣う言葉を届けながら、ごく自然にお金を渡す。軽く手を上げて、また歩き去っていく。全く自然のあり方として存在している。そんな光景を何度か見た。そこには不自然に理屈で武装したぎこちなさも、無知と無理解に基づく傲慢さもない。ただ自然に人間と人間のやり取りがある。思うに、システムに思考を合わせすぎているのかもしれない。ただ人に相対するようにすればいい。システムがあろうが自然に振る舞えばいい。ではどうやってか。

 

山川卓