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共同体のアンシュタルト性

 政治的共同体はアンシュタルト的な性格を持つ。それは、人が自らの出生を選べないということを意味すると同時に、ケアによって生きながらえる存在であるということを意味している。

 アンシュタルトはゲゼルシャフトとゲマインシャフトの中間にあると、ウェーバーは言う。噛み砕いて言えば、共同体がアンシュタルト的であるということは、人々の意思によって成立する政治が、意思にかかわらず決定されている要素の上に成り立っていることを意味する。テンニエスによれば、ゲマインシャフトとは伝統的紐帯に基づく共同体であり、ゲゼルシャフトとは広範な市場活動のもとでの利害関係の共有に基づいて組織化された機能的な共同体である。

 

 

 他方で、ウェーバーによれば、ゲマインシャフト的な行為とは人間関係を前提にする行為、つまり他者に向けられる行為を言う。そのうち、ゲゼルシャフト的な行為とは、諸定律(法や制度など)を根拠にして懐かれた期待を基準にして意味をもって行われ、その諸定律の制定が目的合理的に行われたものであり、基準づけが主観的に目的合理的になされるものをいう。

(マックス・ウェーバー『理解社会学のカテゴリー』岩波文庫、1968年、pp.36-43)

 

 つまり、人間がお互いを人間どうしとして認識し、そこに主観的な判断が生じた場合、そこでは機械的な関係ではなくゲマインシャフト的な関係が生まれてくる。その上で、判断の根拠が諸定律として明示化されて共有されている場合に、ゲゼルシャフト的な関係が発生する。

 

 アンシュタルト的な共同体は、一方では諸定律によって共同体における行為が意味づけられているという点でゲゼルシャフト的だが、他方で誰が共同体に参加するかは諸定律ではなく、もっと前提的に人間のカテゴリーを決める「客観的」要素に基づくという意味でゲマインシャフト的である。

  1. 自由意志による「目的結社」に対立するところの、所属者の意志表示とは無関係に純粋に客観的な諸事実を基礎にした所属」
  2. 計画的な合理的な定律がない、つまりその意味で無定形な諒解ゲマインシャフト関係に対立するものであり、人間によって作られたそうした合理的な諸定律と強制装置とが行為をともに(傍点)規定する事実として存在すること

(同上、pp.78-79)


 たとえば、「日本国」というシステムは歴史の中で営まれてきた政治過程を経て定められた諸定律によって運営されている。それは、所属に関する戸籍・国籍についても同じであり、法律によって規定されている。その意味でゲゼルシャフト的と言えるだろう。しかし、国籍法の冒頭にある日本国民の要件は、父母の国籍と出生地によって規定されている。すなわち、当人の意思の前にある客観的条件によって参加のぜひが定められている。誰もが当人の意思とは無関係に生まれてくることを考えれば、この規定を意思で超克することはできない。だが一方で、政治的共同体の中で結ばれる人間どうしの関係は、政治を通じて決定されるがゆえに、目的合理性を帯びているはずである。

「それにもかかわらず、そうした関係に入るのは自分の力によるのではないということが、まさにそうした関係の存続の根本的前提とみなされるのである」

(同上、p.77)


 意思の交換によって成り立つ政治的共同体であっても、その共同体が存続する上では、必ず諸個人の意思より前に立つ何らかの諒解関係が前提とされる。言い換えれば、生まれてくる子どもの意思を搾取することによって、政治的共同体は維持される。

 

 アンシュタルトな共同体は、ゲゼルシャフトがゲマインシャフト的な性格を持つようになる場合(社会契約→近代国家)や、ゲマインシャフトがゲゼルシャフト的な性格を持つようになる場合(家族的共同体→近代国家)という類型が考えられる。いずれにせよ、特定の時代的空間に固定された時に共同体はアンシュタルト的な性格を持つことになるだろう。そこには必ず、自らの意思とは無関係に生まれてきて、自らの意思を育んでいく人々が存在する。

 だからこそ、アンシュタルト性は、その共同体を変革する潜在的な契機を準備する。だが、それは必ずしも社会契約の結び直しという形での変革ではない。自らの意志で所属を選べないということは、そこに参加する諸個人が完全に自立した十全な個人ではないということを意味する。それはとりもなおさず、諸個人の契約としての共同体という社会契約説がフィクションであることを意味する。そのかわりに、誰もがもとはケアの対象として生まれてきたのであり、また生まれてきた諸個人をケアの主体として気にかけることができるという、「ケアの倫理」に可能性を開く。

 

 ケアの倫理は、あらゆる人間が非対称的な力関係の内に生まれてきて、いっときは必ずケアを必要とする存在であることの上にあらわれる。それは自己がケアを受けることの正当性と、他者に対してケアを届ける責任を要請する。

「ホッブズの社会契約論では、人間はあたかもキノコのように地上に突然、独力で生えてきたかのように、いっさい関わりをもたずに成長したかのように捉えられている。しかし、この仮定はあまりにわたしたちの現実から程遠い。つまり、不幸なケースはもちろんあるが、わたしたちがこうして存在している事実が、弱い者を支配し、つねに自分の幸福を最大化するために行為するというホッブズの人間観があまりに偏っていることを物語っている。

 

 他方で、ケアの倫理からわたしたちが学ぶのは、ひとは傷つきやすく、一定期間は必ず、放っておかれると生きていけないほどの弱い存在であったし、いつ他者に頼らなければ生きていけない状態になるかも知れないこと、そしてだからこそ、自分の傷やニーズに他者から応えてもらうことが大切である、ということである。繰り返すが、ケアの実践は、力も能力も背景も異なる他者との関係性――母子関係はまさにそうだ――のなかで行われるので、そこにはケアする・ケアされる者のあいだに、つねに「軋轢」が存在している。そして、力の違いがあるからこそ、強者の立場にあるものは、弱い立場の者を傷つけやすい。したがって、非暴力的な応答をすべきである、といった強い倫理が働くのだ」

 

(岡野八代『戦争に抗する:ケアの倫理と平和の構想』岩波書店、2015年、p.214)


 人間は十全かつ自由な主体として生まれてこない。アンシュタルトな共同体に生まれ落ち、アンシュタルトな共同体の中で死んでいく。その中でできることは、自己を完全な主体として完成することではなく、他者を完全な客体として従えることでもなく、不完全な互いをいたわりながら共にあることだけだろう。政治的共同体が存在することの意義はそこにある。

 

 人間がケアの対象とならざるを得ないことは、絶望を意味しない。むしろ、ケアの倫理こそが人間の生をつなぐ希望となる。ケアとは共同体の変化を、人のつながりを、はじまりの祝福を意味している。

「このはじまりは常に、いたるところにあり、準備されている。その継続性は中断され得ない。なぜならそれは一人一人の人間の誕生ということによって保障されているのだから」。

 

(ハンナ・アーレント『全体主義の起原3 全体主義』みすず書房、1981年、p.300)


 

 

山川卓