· 

自給自足的な試みの社会的意義

 人が生きていくためには、ある程度までは現行の社会経済システムにコミットしていく必要がある。しかし社会経済システムは大規模かつ匿名的であるため、その中に埋没しながら自分の人生を維持することが困難になるケースもある。そんな中で、大規模な経済サイクルから離れて、自給自足的な活動を行っている人々が大勢いる。

 

 例えば人里離れた場所に小さな小屋を建てて自活する試み(https://greenz.jp/2017/03/21/asaki_suisenan/)、小さな農地を開梱しながら自足する「自給農業」の試み(http://kurahate22.hatenablog.com/entry/2014/09/29/104458)、天気に合わせてライフスタイルを調整しながら太陽光発電だけで電力をまかなっている民家(https://kaden.watch.impress.co.jp/docs/column/solar/674549.html)など、自給自足を個別に実践している人々は、目を凝らせばいくらでも見出される。

 

 他方で、そういった試みは言うまでもなく「自足」することに意義がある。つまり、社会システムに頼ることなく、自らの生産活動を通じて生活を確保することを目的としている。それは裏を返せば、社会システムとつながる必要なく、システムからの離脱によって生活を成り立たせる試みであるとも言える。言いかえれば、「自給自足」そのものは、既存の社会システムを変えることと直接結びつかない。もともとはシステムのあり方に疑問を覚えて始められたであろう試みが、システムそのものから離れたところで営まれる。だから原理的に社会の変革と結びつきにくい。

 

 しかし、そもそも既存の大規模なシステムに対する疑問が出発点なのだから、社会システムを変革するための芽はすでに出ている。エネルギー、食、住居、衣類など人間の生活に欠かせないものが、経済活動の中でシステム化されることで選択が限定される。限定された選択が、ある人々の生き方や思想とうまく合致しない時、そこにない新しい選択肢を求めて自分で作り出そうとするのが自給自足だろう。

 

 つまり、既存のシステムの中で提示されない生き方を、自分で作れることを確認することに、自給自足の社会的意義が潜んでいる。生きづらさを抱えながらも、問題を自らの力では打破することができない人々が、自足する実践を通じて、より繊細な形での社会参加へ向かう余地を確保できるようになることに意義がある。別の言い方をすれば、既存の経済システムに依存した生活のあり方を、食物や住居やエネルギーなどを自分の必要の範囲内にとどめることで問い直すことができるということである。

  

 今の時代を生きる人々にとって、社会を変えるという言明は、冷笑と諦観をもって受け止められやすい。そもそも、社会の前に、自己実現=夢の実現に対して、明らかにかつてよりもシニカルな態度を持つ人々が多いようにも思える。それは、将来に希望が見えないがゆえに、逆に身近な生活における「幸福」を大切にするという、後ろ向きな「今・ここ」主義ともつながっているかもしれない。

  

 こうした態度が生まれる1つの理由は、シンプルに、社会を変えること、自分が生きているシステムを変えることが不可能だという感覚の内にあるだろう。今の自分の生活を維持するのに精一杯である場合、別の生活のあり方の可能性を考えたり、まして実践したりする余裕などない。さらに、自分の生活を人質に取られながら、低賃金かつ長時間労働、ハラスメントなどの理不尽な状況に直面し続ければ、そこから抜け出せる主観的可能性も減少していく。その一方で、自分を取り巻く労働環境、社会環境、政治的意思決定のシステムはあまりにも巨大かつ複雑で、状況を改善する糸口を見出すことすら困難である。こうした事態に直面すれば、自己の生活にかかわる不能感、自分を取り巻くシステムに対する不全感は積もりゆき、そこから逃れうるという可能性は真剣な考慮に値しないものとして払い落とされてしまう。

  

 そこに、自給自足的な生活スタイルが可能性をひらいていく余地がある。自給自足とは、自己の生活を自らの手で作り、維持する具体的な実践である。その実践を積み重ねていくことは、自分の生活を何とかできる、自分を取り巻くシステムの中でもそれなりに自律した生活を維持できるという感覚の回復につながるだろう。

 

 例えば、住居は人間の生活基盤の1つである。住居なしに生きることは難しい。にもかかわらず、これまでの日本社会では一般的に、月々の家賃を払って貸住宅に住むか、巨額のローンを組んで購入した家屋やマンションの1室に住まうかの、2つの選択肢に限定されてきた。どちらを選ぶにしても、毎月の費用を払うために、定期的に収入を得られる仕事に就労することが必要になってくる。逆に言えば、定期収入を得られなければ、一般的な家屋に住み続けることすらおぼつかない。

 

 そうした状況に対して、オルターナティヴな選択肢を与える思想、実践がある。例えば、坂口恭平は路上生活者の人々が作り上げた手作りの家から着想した、「モバイルハウス」という可動式住宅を考案した。合板から作り上げた家は、車輪を付けることで、不動産ではなく車両になる。それによって、土地や固定資産税に縛られることのない住処を保持できるのである。あるいは、高村友也が実践するような「スモールハウス」は、家にお金をかける必要性を感じず、シンプルかつ自由なライフスタイルを送りたいと望む人々が、自らの要求に応じて必要な要素を「小屋」として形にして居住するものである。

 

 重要なことは、これらの家屋が自分の手で作り、あるいは自分の手で管理できる住宅だということである。すなわち、自分にとって必要な規模・設備から算出した住居の形を、DIYで具体化する実践ということになる。何十年もローンや家賃を払い続けるために、自分の暮らしを賃労働に捧げるのではなく、自分の暮らしを支えるための、自分で管理できる家屋を自作するという点に意義がある。実践を通じて、主体的に自らの生活基盤を知り、直接創出していく経験なのである。

  

 自分の生活基盤を自分で作ることは、身体の延長線上に生活があることの確認になる。身体から遊離したところに置かれた生活の根を、足元に取り戻すことになる。それは、自分の手の届く範囲でコントロールできる物事を確認することになるだろう。逆に、自分にはどうにもならない部分を、諦観を通じてではなく現実として確認することになる。

 

 また、このことは単純な消費者ではなく、創造者として経済活動へ参入することも意味する。あるいは、サービスを提供する人として、部品だけを作る人としてではなく、自ら完成品を作る人として活動することでもある。自給自足的な試みは、経済システムの中で自らが占める役割を、付随的なものから核心的なものに変容させるという根本的な変革を伴っていると言えるだろう。

 

 つまり、自給自足を実践することは、貨幣経済システムへの依存を緩和するということに加えて、自分が世界のうちで果たす役割を自分自身に引きつけて捉え直すということを意味する。自分に必要なものを確認することを通じて、社会に必要なものを確認するということを意味する。これこそが、変えようのない世界のシステムに囚われているという感覚を捨て去り、諦観から脱出する契機ではないかと考える。ひいてはそれが、社会を変える潜在的なエネルギーの源泉になりうるのではないか。自給自足の社会的意義はそこにある。

  

 自給自足の実践を社会の変革と結びつけるためには、一方で自足に閉じてしまうことへ誘うような論理を拒否する必要もある。

 

 例えば、自給自足的な試みが新自由主義=自己責任論に絡め取られるおそれがある。すなわち、DIYで、自給自足をやるなら、できてもできなくても社会支援する必要はないという理屈が出てくる可能性である。これはベーシック・インカムの導入を、社会保障の削減と合わせて論じる議論に重なる。ベーシック・インカムの一義的な意義は、経済的能力の欠如によって意思決定の力を奪われている人たちの主体的意思・行動力を回復することにある、現在社会支援を受けて生存している人たちが、ベーシック・インカムの導入+社会保障の撤廃によって生存ギリギリのラインを割ってしまったら、主体性を回復する間も無い。自給自足運動が社会的に受け入れられていくほど、公的な社会保障が撤廃される言い訳に使われる恐れも出てくる。むしろ、自給自足で行き届かない範囲を公共の福祉でカバーするという、福祉政策の王道ともいうべきアプローチが必要になるだろう。

 

 また、自給自足的活動が個々の関心、フィールド、地域に細分化されていき、タコツボ化するおそれもある。個々の自足の取り組みはいかに意義があっても、それが横につながらなければ、あるいはより敷衍化した社会理論とつながらなければ、「珍しいことをやっている人たち」にとどまってしまい、社会システムの変革の始点に向かわない。その珍しさが、既存の社会に対して提起する新しい要請を、その都度拾いあげつつ繋げることが重要である。

 

 こうした論理を踏まえつつ、潜在的な社会変革のエネルギーを顕在化させる見取り図、あるいは個々の可能性をつなげるプラットフォームが必要になるだろう。

 

山川 卓