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メモ:ロマ運動とロマ統合政策

 4月8日は国際ロマデー(internaitonal Romani day)になっている。ロマ文化を称揚し、ロマの人たちが直面する問題を周知するという日で、1990年の第4回世界ロマ会議で定められた。

 

 ロマ、あるいはジプシーやツィガンなどの名で呼ばれる人たちについて、文化や歴史の分野では、優れた文献が日本語でいくつも出版されている。他方で、ロマとされる人たちが置かれる政治的状況に関する日本語文献は少ない。

 

 政治学の文脈では、どんな論点がありうるのか。雑駁に、ロマの人たち自身による国際的な運動と、ロマとされる人たちを対象とした(統合)政策というフレームから、ロマとされる人たちが直面する状況を考えるための問いを整理する。

1. 国際的なロマ運動

 

 1971年4月に、ロンドンで第1回世界ロマ会議(World Romani Congress)が開かれた。この会議で、「ロマ」を民族の名称とすることが決められ、「ロマ」の言葉として「ロマ語」(Romani chib)、シンボルとしてロマ民族旗と民族歌(Gelem Gelem)が定められた。また、第2次世界大戦中のロマ虐殺に対する責任の認定と補償の請求を求める活動、ロマの民謡・民話の収集、ロマが置かれる社会状況(住居、教育、雇用、差別)の改善、子どもたちへのロマ文化とロマ語教育の課題などについて話し合われた。

 

 それ以前にもロマ運動の潮流は各地で発生していたが、1971年の会議は、第2次世界大戦後のロマ運動における一つのメルクマールと理解されている。ただし、「世界」と言っても、第1回会議はそれほど大規模な会議ではなかった。フランスやイギリス、ユーゴスラヴィアなど8カ国から代表として参加した23人に、オブザーバーや地元の人々、アーティストらが加わっていた。

 

 世界ロマ会議の開催は、国際ロマ連盟(International Romani Union)の設立につながり、同連盟は1979年に国連の経済社会理事会にNGOとして登録されるに至った。国際的にはある程度の認知と正統性を得たと言える。だが、内部対立が多く、運動が包摂しようとした人々によってどこまで認められてきたのかという問題も残る。もとより、国際的に運動を展開する人、地域レベルで活動を行う人、運動に与さない人たちなど、一様にはとらえられない。

 

 1971年以来のロマ運動は、歴史上に展開されてきた他のあらゆるナショナリズム運動や国民形成運動と同じく、唯一の流れとして存在したわけでもないし、ネイションを実体的に統一したわけでもない。シオニズムにならってロマ国家の設立をめざす流れも1960年代まではあったようだが、2000年の第5回世界ロマ会議では、トランスナショナルなネイションとしての承認を求める宣言が出されている。2003年には、欧州ロマ・トラヴェラーズ・フォーラム(Europen Roma and Travellers’ Forum)という、個別のロマ団体が参加してネットワークを構成する形の組織が、欧州審議会の支援で成立した。

 

 消えた運動も含めて、現在に至るまでのさまざまな活動の、生成と統合・分裂の流れを理解すること。現在のロマ運動が、後述するロマ統合政策の流れとどのように結びついて、あるいは乖離しているのか。こうした活動から距離を置いてきた人たちは、どのように運動を認識してきたのか。このあたりが、ロマ運動というフレームを通じてロマとされる人たちの現状を理解するためのポイントになりうると思う。

2. ロマ統合政策

 

 こちらは、国や国際機関がロマの人たちを対象として展開する各種の政策方針、実践にかかわる。かつての欧州では、ロマに対する強制的な同化政策や追放政策、絶滅政策が行われてきた。1990年代以降は、主に「統合政策」が展開されていることになっている。

 

 来年、2020年は、欧州レベルでのロマ政策にかかわる一応の転機として位置づけられる。2011年にEUが示した方針にしたがって、(すべてではないが)多くの加盟国で採択された「2020年までのロマ統合国家戦略」と、EU加盟候補国による「ロマ統合2020」のプロジェクトが終わりを迎える年にあたる。そろそろ、各プロジェクトの総括と、次の5年、10年に向けた方針策定のための準備がなされていくだろう。

 

 そうした「統合政策」がある一方で、ロマとされる人々に対するパブリックな認識の悪化、行政の対応硬化傾向は無視できない。

 

 1990年代には、「ロマ問題」は、その人達が置かれる社会経済的状況、差別と暴力、人権侵害の問題として国際機関によって提示されていた。しかし、2004年に「中東欧」諸国がEUに加盟して以降は、各国政府機関や政治家、活動家によって、社会秩序の維持や犯罪撲滅と結びつけて「ロマ問題」が語られるようになってきた。要するに、ロマが直面する問題ではなく、ロマが問題を引き起こすという側面が強調されるようになった。

 

 当局がロマを安全保障化(securitization)する傾向は、欧州に広がった「複合危機」、およびポピュリズムの台頭と無縁ではない。というより、同じ流れに巻き込まれながら相互に強化しあっていると考えられる。

 

 また、大多数のロマは移動生活を送っているわけではないにもかかわらず、ロマは相変わらず放浪の民、異邦人としてとらえられる。通常、他の移民・難民同様に国境を越えているにもかかわらず、あるいはそもそも国境を越えずにその地域の市民として生きているにもかかわらず。

 

 移民・難民に対する認識とロマに対する認識の相互作用、移民・難民政策とロマ統合政策がどのように関係しているのかという点は、2015年以降、外から入ってくる人々が「危機」化された欧州の政治状況で、重要な論点になる。

 

 1990年代以降、欧州全体で共通のロマ統合政策の枠組みが、まがりなりにも形成されてきた。だが、国内に定住するロマとされる人たちと、他の移民・難民同様に国境を越えてコミュニティを形成するロマとされる人たちに対して、統合的に「統合政策」が展開されているのか。ナショナル・マイノリティと移民に対する統合政策はどう重なり、どう異なって運営されているのか。そもそも「統合」を否定する世論が強大な時、残酷なヘイト・クライムが容易に行われている時、「統合政策」はどうやって行われるのか。ロマ運動は、そこにどうやって働きかけるのか。ロマとされる人たちとの連帯をめざす者たちは何をなすのか。そうした問いがある。

 

(山川卓)