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『アフター・ヨーロッパ』

 

イワン・クラステフ(庄司克宏監訳)『アフター・ヨーロッパ:ポピュリズムという妖怪にどう向きあうか』岩波書店、2018年

 

 

 

 本書は、現在のヨーロッパが直面する変化を、「既視感的思考様式」という視座から考えているエッセイです。

 

 特に示唆的なのは、著者がブルガリアの研究者ということもあり、「中東欧」で、なぜポピュリズムが台頭し、リベラリズムが忌避され、反移民的世論が発生しているのか、その地域的な文脈を指摘している点にあります。同じような現象が起こっていても、「西欧」とはまた異なった歴史的背景があると。具体的には、ハプスブルクとオスマンという帝国の支配、WWI後の国民国家の成立に伴う「民族浄化」、WWII後の社会主義体制の歴史が、今のヨーロッパあるいはEUの東半分を理解する上で鍵となる、ということを書いています。

 

 

 例えば著者は、近年の難民危機が欧州の東西を(再び)分断したと指摘します。国境の外から流入してくる人々への対応で右往左往するのは、「東欧」だけでなく「西欧」も同じです。しかし、「西欧」では入ってくる人々に対する支援、同情的な世論が決して小さくない部分を占めていたのに対し、「中東欧」では市井の人々が移民・難民の受け入れ、庇護に対して非常に消極的だと、著者は言います。日本と比べるとマシにも思えますが、なぜ「中東欧」地域では移民・難民に対してより冷淡なのか?

 

 現在の「中東欧」諸国は、そもそも第一次世界大戦後の多民族帝国の解体と同時に、諸地域を「ネイション化」することによって国民国家として成立させました。「中東欧」諸国にとって民族的多様性は、「騒然とした戦間期」への回帰を意味する。多民族性は、その次に続く「民族浄化」を想起させるものとして、歴史的に経験されてきたと言うのです。

 

 また、「西欧」などの「先進国」にとって、国境を解放するということは人の流入を意味します。しかし、「中東欧」にとっては、体制転換後、EU加盟後に実践にうつされた国境の開放は、まず一義的に人口流出として経験されました。開かれた国境は、外から人が入ってくること以上に、中から人が出ていくことを促進する。だから開放的な体制を取りたくない。ネイションに紐づけた体制維持を正当化します。国境開放の最大の受益者は、「優秀な個人の出国者、質の悪い東欧の政治家、および外国人嫌いの西欧の政党」(p.57)だった。人の移動の自由化は、移動できるものとできないものとの格差を広げ、そのひずみを利用する勢力を肥大させてきたという問題です。

 

 さらに、著者はロマの人々の存在も指摘します。何世紀も「中東欧」に居住してきたロマの人々は、いまだに社会の周縁に位置づけられる。「東欧の人々は、すでに自分たちの間にいる『他者』を統合する自分たちの社会と国家の能力を信用していないこともあり、外国人を恐れている」(p.57)。新しい移民を受け入れたとしても、統合は失敗する、という先入観が形成されていると言います。

 

 その上で著者は、「中東欧」の人々がコスモポリタニズムに対する不信を、1989年以前の歴史から育んできたとします。「ドイツ人の強い世界主義は、ナチズムによる外国人嫌いの遺産から逃れる道でもある。その一方で、中欧の反世界主義は、共産主義により強要された国際主義に対する反感に根ざしているとも言える」(p.61)。ナショナルなものへのこだわりは、それが究極のところでは否定されていた共産主義時代に対する反動としてあらわれる。単に目の前の「一風変わった」者たちに対する反応としてではないと。このあたりは、共産主義体制の否定がファシズム時代の再評価と結びつけられる傾向にも関係してきます。

 

 

 これらの主張が、論理的整合性だけではなく、現実の妥当性をどこまでもっているかは置くとして、意識されているのは、経路依存性とでも言うべき歴史的に形成されてきた思考様式です。

 

 ポピュリズム政党を支持する人々は、端的に、一番の「負け組」ではありません。多くは、難民やロマの人々の多くよりマシな生活を維持しているでしょう。

 

しかし、

 

 

「脅威にさらされた多数者は今日、自分たちがグローバリゼーションの敗者になりつつあるという、心からの恐れを表明する。(中略)この意味で、新しいポピュリズムは今日の敗者ではなく、将来、敗者になると見込まれる者を代表しているのである」(p.83)


 

 グローバリゼーションの暴力性に対する批判、粗雑な能力主義・効率主義・エリート主義に対する批判が、国家システム、ネイション単位で偽装された「親密さ」による対抗としてあらわれるのは、欧州に限らず世界的な傾向です。それが「中東欧」では、20世紀初頭までの帝国での被支配者としての経験、多民族性を否定する形での国民国家形成、共産主義体制、「ヨーロッパへの回帰」、ヨーロッパ的規範に対する反発という、一連の歴史過程の先端で現象しているということでしょう。

 

 

 

 1つの疑念は、中東欧の経験を論じる著者が、ブルガリア出身者ではあっても、政治学者・研究者だというところにあります。著者の認識は、例えばブルガリアの小さな村民の経験をとらえているでしょうか。著者自身はまさに体制転換の時代に青年期を過ごした知識人ですが、その知識人層に対する不信がポピュリズムへの吸引力を生んでいると描写する意識下で、人々の不信の根を正確にとらえられているでしょうか。若干言いがかりじみていますが、本文を読んでいて直感的にそうした疑念を覚えます。

 

 

 とはいえ、本書は重要なアイディアを提起しています。歴史的文脈をおおづかみにして「アフター・ヨーロッパ」を見通そうという試みなので、図式的すぎる気もします。が、著者は決して歴史によって現在を裁断しているわけではありません。

 

 「歴史的決定論が幻想(ノイローゼになりそうな人々にとっての麻薬)」(p.116)なのは、欧州プロジェクトを推進してきた者たちだけではなく、「EUは終わった」という者たちに対しても言えることを指摘する慎重さ、楽観を、著者はもっています。トランプ当選やブレグジットを予想できなかった者が、世界はポピュリズムの海に飲み込まれて分裂していくなどと、どうして言い切れるのか、と。

 

 歴史および現実の複雑さを捨象しない視座は、暗い時代にあって希望になりうるということだし、「貴方はどういう立場を引き受けているのか」ということでもあるのでしょう。

 

 

 ただ、全130ページで1900円+税は高い。別にとり肉じゃないので、「1ページあたり4.2円か。お得やな!」とかいう基準で本を買うわけじゃないし、内容は濃いけど。ソフトカバーでもよかったんと違うかな。

 

 

(山川 卓)