(ルポ)ヘイト問題を報じる空疎な記事から考える。
何かしらの対立的、論争的なことが生じている場面において、何かしらの価値に即してより妥当な側を選択すべく一時的に「中立」の立場を選択することはよくあることだ。妥当な判断が可能になるまでの間はなるべく広く情報を集め、対立関係にある双方の見解に耳を傾ける。自分の中で一定の倫理的基準が作られ始めると、判断が可能になる。中立は判断をする前の準備段階であり、いろいろな情報がビュンビュン行き交う環境での避難場所のようなものだ。その意味で、中立という立ち位置はしっかりとした意味がある。ただ、いつまでも「中立」を言い訳に、実態に即してものを見て適切な判断を下す、ということから逃げてはいけない。中立であろうとするのなら、それはその都度、更新され続ける能動的で積極的な態度でなければならない。さもないと、「中立」というのは安全地帯から観客気取りでコメントしているにすぎない。この社会で生を営む以上は好むと好まざるとに関わらず、公共性の高い事柄からは無関係ではありえない。「差別はいけないものである」というかなりの程度まで確立している道徳規範がある中で、あえて自分はこの問題について「中立」であると言うのなら、それはよほど道徳的に鈍感か知的に怠慢かのどちらかであろう。
と、冒頭から熱く語ってしまうような案件が最近ありました。
2009年、レイシスト集団が朝鮮初級学校を襲撃した事件がありました。平日のお昼の授業中に校門前に押しかけて拡声器でヘイトスピーチを繰り返した事件で、その後、実行犯らは刑事罰を受け民事訴訟でも多額の賠償金の支払いを命じられています。先日、その襲撃の「10周年を祝う」という趣旨のデモが京都の祇園〜河原町〜京都市役所間で実施されたわけです。
私も含め、多くの人間が「ヘイトクライムを祝うとは何事か、許さん」と思ったようで、ツイッターではCRAC_WESTのハッシュタグ「#0309NoHateKyoto」をはじめ、抗議を呼びかける多くの投稿がなされ、当日の現場には120名近い人々が駆けつけました。
一方、ヘイトデモ参加者は4名でした。先導車両に3人がのり、1人が車道を歩くという珍奇なデモです。ここにヘイトデモとカウンター抗議者の接触を「抑止」し、街の「安寧秩序」を守るべく動員された警官隊200名が加わることになります。デモは最初から大荒れでした。告知されたヘイトデモの集合時間は15時、出発は15:30です。この15:30というのは東山署が許可を下ろしたものなので、警察としては是が非でもこの時間にデモを出発させなばならぬ、という性質の時間です。
上の秋山理央のYouTube動画の他にも、おおよその事態を把握できる動画がいくつかあるので紹介しておく。
通りかった人が八阪神社前の様子を撮影したもの。本人は状況を「暴動」と誤認しているものの、警察に保護された先導車両が出発する時の様子をうまく捉えている。
https://twitter.com/ZONO0812/status/1104269539125026816
このリンクから序盤からヘイトデモ終盤まで記録されている。
https://twitter.com/crac_west/status/1104280880724373504
また、ヘイトスピーチ中のレイシスト1人を警察が保護している様子を捉えたものもある。
https://twitter.com/nopasaran2016/status/1104287663924764673
映像でもわかる通り、今回のカウンターでは抗議者がアスファルトに身を横たえることでデモの出発を阻止する「シットイン」が行われました。シットインは関西では初めてのことになります。道路交通法的にはかなりアレですが、警察と自治体にヘイトデモ中止の意図が全く見られない以上は仕方ないです。警察はデモを予定通りに実地させるべくあらゆる「努力」をしたものの、出発は大幅におくれ、ようやく石段下の赤信号を抜けて四条通りに入った先導車は、その後はデモ車両とは思ないスピードで四条通りを西進していったようです。その後ろを警官隊がダッシュで一生懸命追いかけていたそうです。ご苦労様な話ではありますが、同時に、ある種の真面目さというのは幼稚さと区別できない、ということでもあります。
ヘイトカーには前述の清水のほか、4月の統一地方選挙で藤井寺市議に立候補する予定の日本第一党・小林こうすけが運転座席に、後部座席には女性レイシストが乗っていました。デモ隊を率いるはずの先導車が先に行ってしまったので、中盤以降は枚方のレイシストで朝鮮学校襲撃の実行犯である川東大了(かわひがし・だいりょう)がひとりで車道を歩き、その周りを数十名の警察が囲み、そのさらに外周をカウンターが取り巻いて罵倒したり、歩道で状況説明をしたり、プラカードで意思表示をしたりという事態が、市役所前まで続きました。
川東が「ゴミはゴミ箱に。朝鮮人は朝鮮半島に」「朝鮮人は半島に帰れ」などの明らかにそれと判断できるヘイトスピーチを繰り返していることは上の映像からも確認することができます。にもかかわらず、警察から中止命令が出るわけでもなく、むしろ警察は川東をカウンターから守り抜きました。ヘイト車両が大通りに入ったのが15時35分頃、唯一の参加者でもある川東が市役所前に「ゴール」したのが16時頃なのでおおよそ半時間にわたって、京都の繁華街でヘイトの害毒が撒き散らされ、混乱が生じたことになります。
川東は機動隊の車両に乗り込み、そのまま護送されていったようです。その後、川東が京阪で枚方に帰ったのか、警察署に行ったのかは不明です。
左の写真は河原町御池交差点、地下鉄駅の様子です。警察の数の多さが目立ちます。警察に対してカウンターが「レイシストみたいな悪者を守るために警官になったんか」「上から指示するな」等の説教をする展開になりました。
私も複数回にわたる警察とのやりとりで、彼らのロボット的振る舞いにはかなり呆れていましたので、「上からの命令ばっかり守って自分の頭で考えないと脳が劣化するよ」という趣旨のことを拡声器で伝えました。実態に即した妥当な指摘と言えるでしょう。
(撮影:伊藤)
これは私の感覚ですが、この日の警察は「いかに短時間でデモを終わらせるか」に腐心していました。交通への影響を最小化することこそが京都府警の目指すゴールです。「カウンターとかややこしいことはしてくれるな」という思いがありありと感じられました。混乱を避けたい気持ちは理解でもないでもありません。しかしヘイトスピーチによる被害を最小化する、といった人権感覚も同時に持ってほしいものです。警察が守るのは「秩序」であって「人間」ではない、ということを改めて実感した次第です。
現場の感覚として、この日の警官がとくに暴力的であったという印象はありません。むしろ、車道を1人で歩くレイシスト川東の周辺に生じる空いたスペースを埋めて、次から次に飛び出してくるカウンターの人たちを排除するという作業に没頭していた印象です。彼らの頭の中にあるのは「秩序の維持」ですから「この混乱のせいで市バスが遅れたら大変だ〜!」と心の底から信じているのでしょう。自分たちが違法な主張を繰り返すデモを保護している意識はきわめて希薄でした。客観的に見れば、彼らの果たした役割は、レイシストがゴールに向かう道筋を開けることです。
映像を見れば明らかなように、この日の京都府警がやっていたことはヘイトスピーチの黙認とヘイトスピーチ実行者の保護です。なんの権限もない末端の警官は命令にしたがっただけかもしれませんが、ヘイトスピーチに抗議するという当たり前の市民の権利を物理的に抑圧したのは、そうした末端の警官でもあります。自分が何をしたのかよく反省してもらいたいものです。上司から言われた仕事を遂行する中で、まともな判断力に蓋をしてしまった警官も多いのでしょう。そのうち物事を判断する能力それ自体がなくなりますよ。警察はあくまでも「正義の味方」であるべきで、人権の守護者であるべきです。ヒエラルキーの上の方のエライ人でも末端の人でも、市民からすればみんな同じ警察ですからね。
以上が3月9日に京都であったヘイトデモのあらまし、ならびにカウンター参加記録です。
京都新聞の報道。
さて、ここからが本題となります。このヘイトデモのメディア報道についてです。地元紙である京都新聞がどのように報じたのか。
まず、情報量が圧倒的に少ないです。繁華街の交通が一時的に麻痺したにもかかわらず、元凶であるヘイトデモについての詳細が語られていません。「在日コリアン排斥などを主張するデモ」であったことは間違いないですが、デモのそもそもの趣旨が小中学校へのヘイト街宣を賞賛するという、言語道断な内容であったことは少なくとも言及すべきでしょう。京都に暮らす子供たちが標的になった事件なのですから。
また、この記事からはヘイトデモの参加者がわずか4名であり、道路を実際に歩いたのは1人であったことは書かれていません。現場に集まった人間の数を比較すると、「朝鮮学校襲撃万歳」や「在日コリアン排斥」といったデーマを掲げた側はほとんど共感を得ることができず、逆に、そうしたゲスい主張に真剣に怒る側が圧倒的に多かったのです。その動員数の「非対称性」について言及することもできたはずです。しかしこの記事では「差別する側」と「差別に抗議する側」がイコールの関係で表現されており、同程度の数が集まった党派の間に警察が「間に入った」、ということになっていますが、これは事態の整理として妥当ではないでしょう。
この記事を執筆した記者は自分を「中立」の立場にアイデンディファイしているようです。おきていた事態を「差別を扇動する人たち」と「差別の扇動に怒る人たち」と説明した以上は、自身の立場を説明する必要があるでしょう。ところが、この記事は反差別の意思表示をすることなく、「観光客や買い物客が行き交う一体は騒然とした」という描写で記事を閉めています。自分はどちらの側でもない、と両陣営からの距強を強調したいのでしょうか。
この記事から受ける印象は「なんかヘイトスピーチする人がいて、それに反対する人がいて、大変やったわ〜 迷惑やな〜」という野次馬感覚でしかありません。街の人たちは「大変やな」とつぶやいて日常に戻りつつも自分たちが目撃した事態の妥当な「説明」求めています。差別と反差別が衝突するような場面において、自分がどちらのサイドに軸足を置くのかを明示しないのは知的怠慢でしょう。この記事が依拠する倫理的規範というのは「街で騒ぎを起こすのはよくない」とか「交通の妨げになることは迷惑なのでやめましょう」といったものに限定されています。「差別はよくない」とか「ヘイトスピーチは許さない」といった倫理的規範は一切排除されています。どうしてその程度の最低限の記述ができないのか疑問です。
メディアが放棄した「説明」の役割をカウンターが補う場面も多くみられました。
いつものことですが、反差別カウンターをしている側はそれぞれの判断で抗議の声をあげ、街頭にむけて事態の説明を行っています。見渡せば複数の言語でかかれたプラカードが抗議と説明の役割を果たしていることがわかります。ツイッターのハッシュタグ「#0309NoHateKyoto」も抗議への参加と状況説明を兼ねた役割を果たしていました。
カウンター参加者は様々な方法で反差別の意志を表現しています。誰もがヘイトスピーチの危険性やそれが社会に与える害悪について真剣に案じているし、差別を娯楽的に楽しむ連中に怒りを覚えているし、差別デモが公権力に保護されて成立しているという事実に心底悔しい思いをしています。メディアはこうした側面もしっかりと取材して伝えるべきでしょう。
最初は「ヘイトスピーチってなんや」程度の感覚で来た人であっても、現場で「生の」ヘイトスピーチを聞くと明らかに様子が変わります。そして言語道断のヘイトスピーチが警官隊の厳重な警備の「内側」で行われていることを観察して、抗議の声をあげるに至るようになるのです。記者さんは自分が「一帯は騒然とした」と表現した風景の中に、身を投げ出してヘイトデモを止めようとしたり、冷たい視線に晒されながらも状況説明に徹していた人たちがいることを知ってますか。「知らなかった」というなら「ハッシュタグをたどる」程度の情報収拾をするべきですし、知っていてあえて無視したのなら人権啓発研修等を受けた方がよいです。「中立」の立場に固執するあまり、起きていることが正確に説明できないのはジャーナリズムとして失格です。
アパルトヘイトと闘った南アフリカの神父Desmond Tutu(1930-)はかつてこう語りました。"If you are neutral in situation of injustice, you have chosen the side of the oppressor." (不正義を前にして中立である、ということは抑圧者の側を選んだということだ。)この言葉は世界中でレイシズムと向き合う人々の間で愛され続けています。記者は、the oppressorをthe racistsに置き換えて、この箴言の意味をよく考えるように。
今回、槍玉に挙げた京都新聞の記事が、メディアに掃いて捨てるほどある「中立」記事のひとつにすぎないことは重々承知しています。記者も編集者もいろいろ大変なんでしょう。いちいちトラブルに巻き込まれたくない気持ちもわからないでもないです。とはいえ、メディアがこうも知的に怠慢だと、社会がガタガタになってしまいます。そうなると「観光地が騒然として怖かったねー」とも言っていられなくなるので、苦言を呈した次第です。
(伊藤健一郎/ C.R.A.C_WEST)
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Show (土曜日, 23 3月 2019 19:16)
アメリカの犬=売国奴ABEのオトモダチ桜井の傭兵がたった4人か。(親分はシコタマ貰っているのに可哀想なお前たち・・・。)
それを守るための京都不敬が200人!
逃げるように進む街宣車を走って守る図なんざ、カッコ悪くて見てらんない。
ダイインしてくれた50人、ありがとう。
傭兵をビビらせてくれた300人、ありがとう。
撮ってくれた理央さん、レポートしてくれたC.R.A.C_WEST、ありがとう。