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読書録:綾屋紗月、熊谷晋一郎『つながりの作法:同じでもなく違うでもなく』

綾屋紗月、熊谷晋一郎『つながりの作法:同じでもなく違うでもなく』生活人新書、2010年

 

 

 

 本書は著者自身の「つながり」の経験を通じて、個人の身体内部でのつながり方、個人間のつながり方、個人と社会の齟齬までを、分析的につづった本になっている。著者の1人はアスペルガー症候群の診断を受けて、1人は脳性まひという診断を受けた。両者ともに、医療機関から付与された「病名」を有していたが、そこにとどまらず、より深くみずからの経験を掘り下げて本書を書き上げている。いわゆる当事者研究にあたる。

 

 当事者研究とは、浦河べてるの家で始まった、「自分の身の処し方を専門家や家族に預けるのではなく、仲間の力を借りながら、自分のことを自分自身がよりよく知るための研究をしていこうという実践」(pp.102-103)とされる。いわば、「マイノリティ」として客体化されがちな諸個人が、主体的な自己解釈を取り戻そうとする実践と言える。あるカテゴリーに客体として固定された自分を、主体の方に引き戻す過程で、実態に接近する試み、という言い方ができるだろうか。

 

 本書に一貫しているのは、自己の経験を意味づける筆致の丁寧さと、それを解釈する考察の精緻さ、身体と意識の接続の仕方に対する眼差し、バランスのとり方など、言葉によって観念化することに対する繊細さである。

 

 2人の著者はまず「つながり」をキーワードとするうえで、自分の身体レベルでの経験からはじめる。そして、五感で受け取る情報がうまくつながらないことで、自分を世界の中で安定した状態におけない経験、あるいは全身の動きがつながりすぎているために、世界で起こる現象に対して柔軟に反応できないという経験を意味付ける。

 

 さらに、そうした身体を経験する自分が他の個人といかなるつながりを持つのか、社会なるものの構造に対してどう齟齬をきたすのかを、家族とのコミュニケーションを通じた経験、「同じ」経験を持つ仲間との連帯によって齟齬を克服しようとする経験、そこでも同化と排除の力学に直面するという経験を通じて解釈する。

 

 その上で、「違いを認めた上でつながる」可能性を見出せる試みとして、2つの自助組織での実践を取り上げて、丁寧に分析している。

 

 

 

 読んでいて思ったのが、経験に対する丁寧さとは、動的なものに対する認識(と言語化)の精緻さを意味するということ。経験は蓄積・変転していくもので、それ自体が動的なものだが、経験に意味を与えて言葉で表現することは、動的なものを切り取って、固定し、とどめることになる。それゆえ、経験と言葉、実態と観念は動と静という二項対立的な位置における。

 

 しかし本書では、動と静を二項対立的にわけたうえで動を見るというよりは、動―静という2つの側面に分類をしたうえで、2つの側面を行ったり来たりする現象を理解する。動―静という構図そのものを動的に捉えるような言葉のつむぎ方になっている。

 

 例えば「言いっぱなし、聞きっぱなし」という実践が紹介されている。言葉を扱うことの静性と動性は、その実践と、それを描写する表現に見られる。ある自助団体での実践として紹介されているこの方法では、話し手は聞き手の反応によって自分の語りを左右されることなく、ただ自分の経験を正確に表現することに集中する。聞き手は話し手への応答を行わず、話の内容そのものに集中する。そういう空間を作るという試みである。

 

 

 理想的な「言いっぱなし聞きっぱなし」空間が成立した際、語り手は自分の語りに対する他者の反応に気を払わずに済み、自分の語りが正確に自分の体験(一次データ)を表現しているかに集中できている。語り手は外界に意識を向けず、自分のなかにある体験の記憶だけに注目している。このときの綾屋は自分を外から眺めているとは感じず、自分の内側にいながら、内側の自分の記憶や感覚を探っていると感じていた。よって、自己と外界の境界線である「『私』の輪郭」は視界に見えていない。つまり客体としての「私」はその場におらず、「思い出し、感じ、語り、聞く」主体としての「わたし」のみになっている。この「わたしが話すのを聞く」とでもいうべき閉じた<知覚・運動ループ>は、ほとんど個に閉じこもった密室に近いが、声はその場の空気を振動させて他者へと届くため、公共性も併せ持っている。このようにして、安全な密室の中で「わたし」を立ち上げつつ、外界とも情報交換できる条件が整うのである(pp.145-146)。


 

 いわば方法として話すものと聞くものとの二項対立が「静」として設定されたうえで、「語る」という実践の意味は、語りに集中する話者と、話者から切り離されて聞く聴者の間の公共性に至るまで、メタレベルで「動」として解釈される。

 

 言葉を通じて現象を理解する枠組みとして、どうしても実態と観念の二項対立があらわれてくるが、本書の文章はその二項を動的につなごうとしている。経験を動的に言葉にするということは、その時々のダイナミズムを一旦止めながら、言葉そのものはとどめないということになる。本書で分析されている経験や実践だけではなく、それを表現する方法そのものが、差異を抹消せず、しかし固定化することなく、なおもつながりを模索するという著者の所作に重なるのだと思う。

 

 そのことは、主体化と客体化の動的な移り変わりの認識にもつながっている。

 

 綾屋は、それまで自分で自分の経験を意味づけることができなかった末に、正式な病名診断を受けた時の心境を以下のように記している。

 

 また、帰りの電車の中では、私から離れていた二歳、四歳・・・・・・十六歳、二三歳、の私が、一体ずつ私のところへスーッと集まってきて私の身体の中に吸い込まれていくような感覚になった。「自分の存在」や「周りで起きていること」に意味づけができず、その時その時で断片化した記憶となってしまっていた「過去の私」が、一つの時間軸の上に並ぶようにして「現在の私」に統合されていく感じだ。電車を降りてからは、「そのひとつひとつの過去の私をすべて許していいんだ」と感じた(pp.85-86)。


 

 ここでは、診断という「客体化」される経験が、これまでつながりを見いだせなかった自己の諸経験をつなぎとめ、「主体化」する契機になっている。客体化という、人間を「物」化するプロセスが、むしろ自己として立ち上がるきっかけになっている。「私の所属するカテゴリーが承認されたことで、やっと私の存在の輪郭を定めてくれるような、自分の足場ができたと思えた(pp.87-88)」。しかし他方で、同じカテゴリーのコミュニティに参加するようになった時に、そこにぴったり当てはまらない自分を見出すようにもなる。

 

 「コミュニティによって共有され、テンプレート化(定型化)された『本物らしさ』、つまり、いかにもそれらしい特質を持った人物として同化的に振る舞うことをしなければ、コミュニティから排除されかねないという圧力を感じることがある」(p.90)


 

 「客体化」には、経験を一定の型によって観念化してしまうことで、経験そのものに即して自己の主体性を動的に作り上げようとする姿勢を抑圧する面もある。経験を対象化することで主体として行動可能になるということと、その対象化の視線そのものに縛られることが地続きにある。

 

 

 

 ではどうすればいいか。2つの自助組織での経験から、固定されないが安定した主体どうしの関係を準備する方法として、4つの実践からなる「つながりの作法」が提起される(pp.155-184)。

 

1. 世界や自己のイメージを共有すること

2. 実験的日常を共有すること

3. 暫定的な「等身大の自分」を共有すること

4. 「二重性と偶然性」で共感すること

 

 経験を借り物ではない自分の言葉にし、日々の実践で少しずつ問いと実験を通じた変化を試し、その都度揺れ動く不完全な自己と世界を受け入れ、なお差異によって孤立するのではなく「違うのに同じ」という二重性・偶然性を生きる。

 

 二重性とは特殊性と普遍性、偶然性とは、「『ちょっとした偶然の成り行きで別の人生を歩んだが、わたしは、あの人だったかもしれない』という、差異の『偶然性』」(p.178)を意味する。意思を軸とすれば、主体性と客体性の二重性、偶然性と言えるのかもしれない。そうした実践の果てにも、自己は流動的であるがゆえに完成しない。経験と丁寧に向き合ういとなみが続くからこそ、「弱さは終わらない」という認識にいたって本書は閉じられる。

 

 

(山川卓)