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ケアの倫理についてのメモ

 「人は一人では生きられない」という事実は、当たり前すぎるために、十分な重みを与えられないことがある。諸個人が「自立した」主体であるためには、その裏で誰かの「ケア」にいつも支えられていなければならないことが、しばしば忘れられる。

 

 例えば、1970年代日本の定型的家庭像のようなケースでは、働くサラリーマンは主婦の家事に依存して生活を維持できているだろう。あるいは、年齢や障害などで身体の自由が制限されるという際に、介護としてケアを受ける場合もある。何より、ある人が子ども時代を過ぎて一定の年齢まで成長したという場合、(ケアと呼ぶのがためらわれるようなひどい扱いを生き延びた者もいるだろうが)その人が生きるために必要なものを一定の期間、誰かから与えられてきたことを意味する。

 

 人は一人では生きられず、必ず誰かのケアに依存するという事実を直視した際に立ち現れるのが、「ケアの倫理」という概念である。

 

 

 

 ケアの倫理は、社会や共同体が自由で自立した人格の集合として成り立っているというフィクションを批判し、そこで不可視化されてきた、諸個人を支えているケア関係に焦点を当てることで、より公正な社会を模索するための概念といえる。社会契約論では、対等な諸個人が契約関係を結ぶことで共同体が成立することになっている。しかし、生まれた瞬間に「自立した個人」だった人はどこにもおらず、誰もが他者からケアを受けることで生育し、ある程度自立した個人になる。また、自立したといっても、あらゆる必要なものをすべて自分1人の手で自活することは考えにくい。さらに、「公」の場で自立しながらも、「私」的な場で誰かのケアに依存しない者はない。あるいはケアを失って摩耗していく場合もありうる。年を重ねることによる、心身の衰えに伴うケアの必要も、生きている限りいつか直面するだろう。生まれた時から誰かのケアを必要としなかった人間は存在し得ず、社会的自立という認定を与えられた後も、ケアを必要としない人間はいない。その意味で、「自立した個人」に対するケアは、個人にとって、共同体や社会にとって無視しえない重みを持っている。

 

 ところが、ケアはしばしば矮小化される。共同体を「自立した個人」の集まりとする観点からは、ケアの存在→依存→自立していない個人の存在と解釈されるため、ケアそのものが価値を認められない。その上で、ケアは「私的空間」=「家庭」に押し込められ、公的な空間と切り離された。そして歴史的には近代に至るまで、公と私の分離は、「男性」と「女性」という性別の分業と重ねられてきた。ケアを担う役割は女性たちに課され、私的なものとして、公的な空間で不可視化された。

 

 ケアの倫理という概念がフェミニズムと結びつく理由は、ここにある。すなわち、ケアの行為が私的空間に封じ込められることで、その担い手としての女性が果たす役割に正当な評価がなされなかったこと。あるいは、女性たちがケアの担い手と位置づけられることによって、公的な空間で自立した主体として、「男性と対等な立場」として承認されてこなかったこと。その上、男女平等が形式的に承認された後でさえ、ケアの責任を負わされることにより、決して対等な条件で公正な競争に参入できる状況になかったこと。ケアの倫理は、ケアの重要性を確認すると同時に、その責任・実践が女性に負わされる状況を解体し、ケアを多様化することによって、上記の構図を克服しようとする。

 

 

 

 ケアの特徴は、①それが誰にとっても不可欠だという点にある。程度の差、期間の差はあれど(そしてそれは個人の意志でコントロールできるものではないが)、ケアを受けてこなかった者は生存しえない。だから、誰も無関係ではいられないと同時に、責任と権利の双方を背負う(可能性がある)。

 

 にもかかわらず/それゆえに、②社会制度、共同体構成原理の中で不可視化されている。子育てから介護まで、諸個人が社会の中で生きていく上で、あらゆる場所で日々実践されていることが、ケア行為者にどのような負荷をおよぼすのか明瞭に位置づけられていない。ケアを実践する人が「自立した個人」になるうえで、どんな負担になるのかが認識されていない。だから「形式的な平等」を達成するだけでは、ケアの負担が考慮されないまま、構造的な不平等が残される。

 

 そして、ケアが不可視化されることによって、③ケアを担う者に対する、正当な評価・適正な支援がなされない。おそらく歴史を通じて政治的共同体は、ケアを担う人たちを共同体の周縁に置き、「自立した個人」としての力を奪い取ってきた。ケアの重みは経験としてあらゆる個人にとって理解可能であり、実際に現在では少子高齢社会という問題設定も手伝ってケアの重要性は指摘され続けている。にもかかわらず、あらゆる個人に関係するということが、ケアの価値を見うしなわせ、それを担う者を「自立した個人」として認めさせない。

 

 本来、誰もがケアに依存し、そのことによって「自立した個人」として機能しえているにもかかわらず、当のケアを担う人々はケア負担者という位置づけによって「自立した個人」として社会関係に参与することを制限され、あるいは認められてこなかった。

 

 言い換えれば、ケア関係は私的空間、「家族」の領域に押し込められてきた。それは女性たちにケアの責任と負担を押し付けてきた。男性が外部社会で自立した主体として成り立つためのケアを提供する存在として、「家族」の中に位置づけられてきた。

 

「社会を構成しているわたしたちの始まりに、一方的にわたしたちにさまざまなものを与える立場に誰かがいてくれた。その誰かもまた、一方的にさまざまなものを与えてくれた誰かによって、生きることが可能となった。わたしたちは、この誰かを「母」と呼び、家族へと囲い込むことで、社会的・政治的な力を奪い、あたかも社会的には無能な者であるかのように扱ってきた長い歴史の末裔である」(岡野2011、pp.38-39)。

 


 

 ケアの歴史は「家族」に封じ込められてきた歴史であり、それによって粗雑な直接的/構造的暴力が行使されてきた歴史である。

 

 だからこそ、ケア行為者が無力化されることなく、社会の中でケアを対等な形で共有し、「ある程度」自立した諸個人による共同体にしていくために、ケアを位置づけてきた「家族」の概念をとらえなおすことが重要になる。

 

 

 

 例えば、「家族」を私的領域に封じこめるのではなく、公的領域において求められるような個の自由、個の多様性を土台としながら、同じ原理が「家族」内でも適用されるようにする方向性がある。これは、「家族」単位で私的化・神聖化されたいろんな要素を個人レベルに落とし込んだ上で、諸個人の自由意志を保障しながら相互のケア=依存関係を再構成するという、「契約アプローチ」である。単純に法律婚のみにとどまらないパートナーシップや、血縁ではなく子どもの「発達権」の保障にもとづく親子関係など、個人の自由と家族の多様性を家族的パートナーシップ制度として具体化することが、契約アプローチには含意されている(有賀2011、pp.127-165)。

 

 つまり、「公」における「自立した個人」の条件を見直しながら、公私の分断を再編することで、より公正な家族関係を追求する。誰もがケアを必要とすることを前提としながら、自由意志にもとづく社会契約を可能な限り敷衍し、ケアの責任と享受の程度を、「公」的領域での公正の原理に照らし合わせながら再編しようとするアプローチといえる。

 

 

 

 あるいは、「家族」を「強制性」、「偶然性」、「拡張性」という観点から捉えなおすことで、より開かれた共同性を実現するための基礎単位として位置づけようとする議論もある。家族は、自由意志による参加も離脱も容易にできない「強制性」をもつからこそ、政治的共同体の土台になりうる一方で、必然ではない誰かの意志・行為という「偶然性」によって形成される。そして、親密さによって「異質な」者を家族のなかに迎え入れることができるという「拡張性」を伴う(東2017、pp.215-222)。

 

 人は強制的にケア関係へ組み込まれる。自分の意志とは無関係にケアを提供される対象になることで、子ども時代を生き延びる。その意味で、大人となってある程度自立した行為主体としての責任を引き受けるということは、自分がかつて受けたケア、あるいは、よりましなケアを誰かに提供する責任を引き受けることになる。そこにケア関係の普遍性と連続性が見出される。

 

 ケアの偶然性は、ケアを受けた者が提供してくれた者に恩返しをするのではなく、別の誰かにそれを提供しうるところにある。道を聞かれた人を案内したり、席を譲ったりという行為は、偶然の遭遇によって起こる。ケアの負債感覚は、ケアをしてくれた人ではなく、そのつどケアを必要とする人に向けられうる。その意味で、開かれた家族概念は、必然を超えた偶然のケアの糸を紡いでいくことを準備する。

 

 そして、エヴァ・フェダー・キテイが強調するように(岡野2011、pp.40-41)、ケア関係には第三者の存在が重要であるというところに、ケアの拡張性がある。つまり、ケア行為者に対してケアを提供する第三者が、いつも必要とされる。 ケアを提供する者とされる者の閉じた関係ではなく、第三者を含めた関係に拡張することで、家族=ケア関係の網はどこまでも広がりうる。

 

 この場合、ケアは、特定の誰か(例えば「母」)ではなく全ての人が担い手となり、互酬的(「親⇔子」)ではなく誤配的で、限られた成員(「親」「子」)ではなくケアを必要とするあらゆる者が配慮の対象になりうる。

 

 

 

 最後に付言すると、ケアを考える上で「軋轢」に注目する必要がある(岡野2012、pp.152-154)。それは、ケアを与える者と与えられる者の関係が閉じているときに起きやすいだろう。まずケア行為者による虐待がある。逆に、ケアをする者が他者のケアを受けられず、疲労していくケースもある。あるいは、誰かに対するケアと別の誰かに対するケアがゼロサム的な関係になる場合もありうる。それを避けるために、あるケア関係の背後には、常にそれをバックアップする別のケア関係が要請される。つまり、ケアを個々人の関係としてではなく、多層的に重なった社会の営みとしてとらえる視点が必要になる。その意味で、「一部のひとたちを専ら危険に晒すことのないように配慮すること、すなわち傷つきやすさvulnerabilityにおける不均等をなくすこと、それが、ケアの倫理から提起される、社会で分有されるべき責任である」(岡野2012、p.161)。

 

 それゆえ、ケアの倫理という概念は、ケア関係にかかわる非対称的な権力関係を視野にいれている。権力に対する批判的視座は、閉じたケア関係のなかで暴力が振るわれないためにも重要だし、外部の者からの「あなたもケアをしているが、私もしている」という一般化を通じた無責任化を避ける意味でも重要になる。同時に、ケアの責任が女性たちに負わされてきたように、社会的権力関係の文脈にケアが位置づけられることも注視する必要がある。

 

 ケアの倫理は、マイノリティ-マジョリティ関係を考えるための、基盤を提供する概念といえる。それは、異なる「集団」間の権力闘争ではなく、多文化主義におけるマイノリティの「適度な」自治でもなく、権力の不均衡と「依存」を前提としてケアを与えあう開かれた共同性として、マイノリティ-マジョリティ関係を構想する鍵となりうる。

 

(山川卓)

 

 

参考文献

有賀美和子(2011)『フェミニズム正義論:ケアの絆をつむぐために』勁草書房

東浩紀(2017)『ゲンロン0 観光客の哲学』ゲンロン

岡野八代(2011)「ケア、平等、そして正義をめぐって」(エヴァ・フェダー・キテイ(2011)『ケアの倫理からはじめる正義論−支えあう平等』白澤社)13-42頁

岡野八代(2012)『フェミニズムの政治学』みすず書房