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冷えたバーベルと身体

筆者は、前々から筋力トレーニングを趣味で行っている。週に3~4日行く。ダンベル・とレーニングをしたり、バーベルを使ったトレーニングをしたり、ランニング・マシンで汗を流したりしている。   そこへきて、最近は減量も行っており、72キロあった体重は、いまは67キロあたりまで減ってきた。いわゆる「ばきばき」に近づいてきている。

  筆者自身でなくても、いまやYoutubeを観れば、いろいろな筋肉Youtuberたちが様々なトレーニング方法、節制の仕方、私生活などを公開している。最近では、芸人の中山きんにくんもYoutuberに参戦し、ざっぱくな印象だが筋トレ8割・笑い2割くらいの編集で動画を公開している(決して、「面白くない」と言っているわけではなく、“芸人なのに”筋トレ8割・笑い2割の割合でガチでトレーニングするんかい!、というところが面白いと思う)。   ともあれ、筋トレ——というか、自分の身体を管理しつつ、魅せる筋肉をいかに作るかということに、少なからぬ人々が関心を抱いていることは確かだろう。

 

   さて、筆者は、政治哲学だとか、身体論だとか、宗教論だとか、そういった学問領域を専門にしている。というか、関心が赴くままに本を読んだり、考えていたりしたらそこへたどり着いた。だから、「専門」とまで胸を張ることはできないが、「身体」は哲学だとか、宗教論(宗教哲学)にとっても、とても重要なトピックである。   とくに、哲学では、“心身二元論”と呼ばれる大きな問題が存在する。精神の領域たる内面とそれに従属する物質的・生物学的(あるいは神経学的)な身体のあいだの区別を明確化して、そこから「人間とは何か?」とか「行動とは何か?」とか「思考とは何か?」という問題を扱う——これを「心身二元論」と言う。フランスの哲学者ルネ・デカルトがそうした見方に哲学的な客観性を与え、近代合理主義の基礎となっている見方である。   この心身二元論を乗り越えるために、さまざまな哲学的な格闘が行われてきた。ニーチェしかり、ハイデガーしかり、メルロ=ポンティしかり。あるいは、この二元論を克服するための視点を提示する思想的な視点を与えてくれるものとして、ルソーだとか、もっと遡ってアリストテレスだとか、あるいは、もっともっとさかのぼって、(ハイデガーがやったように)「前ソクラテス期の哲学者」であるアナクシマンドロスとかに遡れるかもしれない。もしくは、地域を変えて、「東洋哲学」だとか「仏教」に精神と身体の二元論的な区別を乗り越える視点を見つけることができるのではないか、と様々な哲学的・宗教的な思索が展開されてきた。

 

  なぜこんな話を筋トレの話のあとにするのかと言えば、しばしば「何のために(筋トレを、あるいは減量を)しているの?」と聞かれるからだ。ほんの数日前も聞かれた。そのときは、とっさに「自己満足です」と答えた。いつも「ルーティンみたいなものです」とか「健康のためです」とか「最近、太ってきたので(痩せるためです)」と、あやふやな答えを返して、「何のために?」の問いに真正面から答えようとしていなかった。 それと同時に、「何のために筋トレとか減量をするの?」と聞かれるたびに、よくわからない違和感が——あるいは、不快感に近い違和感を抱いていたのも確かだ。でも、この不快な違和は、決してうまく答えられない自分へのストレスでも、質問者に対するイラつきでもない。これは何なのだろう——「あ、心身二元論にイラついているのか」と、こういう次第で心身二元論の話を持ち出したのである。

 

  “心身二元論にイラつく”とはどういうことか?大きく分けると、2つの側面があるように思えた。第一に、「何のために?」という問いが身体の運動に突きつけられることへのイラつき。第二に、身体の運動それ自体以外の目的を身体の外部に設定しなければならないのではないかという自分自身の問題意識へのイラつき。   どういうことか。一点目は、こういうことだ。「何のために?」という問いは、身体の外部から突きつけられるものだということ、つまり、心身二元論で言えば、「精神」や「観念」から「身体」へ向けられた問いなのだ。だから、「何のために?」と問うことで、身体の外部にある目的——たとえば、「それによって健康が保たれる」、「精神的安定が保たれる」、あるいは、「モテる」という目的——があるはずで、そのために筋トレをやっているという前提で話をしなければいけなくなるのだ。しかし、これは筋トレを、いや「身体を観念化せよ」・「身体を観念へ従属させよ」という言外のメッセージを発していることになるのだ。僕は、ここにある種の“マウンティング”のようなものを感じてしまうし、心身二元論という問題の根深さを見てとってしまうのだ。   二点目についても、一点目と密接に結びついている。簡単にいえば、自分も筋トレをするなかで、自分の身体をコントロールするために、何らかの観念化を働かせているのだ。だが、実際に、僕が筋トレをしながら感じていることは、身体全体が観念化の働きをかき消して「すっきり」するという快楽なのだ。言ってしまえば、筋トレ中は、僕の身体が観念をかき消して、「何のために?」という観念的な問いを意味のないものとしている。もちろん、身体の各部位を鍛えるためとか、持久力をつけるためとか、ぽっこりお腹をひっこめるためという具体的な動作の先に待っている成果らしきものは、筋トレ中にも意識はしている。

 

  さらに、たとえば「なぜ胸筋を鍛えるのか?」「なぜ持久力をつけるのか?」「なぜお腹を引っ込めたいのか?」と問われれば、もしかしたら普段の社会生活のなかで「よく見られるため」とか「モテたい」とかいう人間関係のなかでどう魅せるのかという目的を見出すことができるだろう。あるいは、プロのスポーツ選手であれば、パフォーマンスを挙げて、高い報酬を稼ぎ、有名になりたいという大きな目的が見据えられていることだろう。   しかし、プロのパフォーマーではない僕の筋トレなどは、想定できるとしても、「よく見られたい」程度の目的にしかせいぜい通じていない。というか、7年も8年も筋トレを続けていると、「よく見られたい」という願望もどうでもいいものとなる(この辺、他の人たちがどう感じているかはわからない)。

 

少なくとも、「筋骨隆々」に普遍的な魅力はない。一部の人は魅力を感じるかもしれないが。   この点、健全な肉体美=善というイメージを振りまくYoutuberや筋トレマニアもいることはいるが、僕などはそこに歪んだ身体の観念化の臭いをかぎ取ってしまうので苦手だ。   さきに見たように、ポイントは、身体運動中は心身二元論から逃れられるということだった。運動中は、「何のために?」という観念化から身体が自由になる。  

 

しかし、そもそも、なぜ心身二元論には問題があるのか?この肝心な点に触れていなかった。哲学的にいえば、“自我という実体を精神に見出すこと”にある。そして、自我という精神的な実体を「主」として、身体を「従」とする図式が生み出される。デカルトの「われ思う(考える)ゆえにわれあり」という「私」の発見は、「思う」という意識の行為のなかに「私」が現れているということだ。ここでは、「思う」という精神的作用のなかに「私」なるものの実体が現れているという主張が含まれている。ニーチェは、この点を疑った。「私」が「思う」という因果的な結びつき、あるいは主従関係図式がなぜそもそも前提にされるのか。

 

  だが、このように心身二元論の問題を論じても、身体運動の反観念的な性質を理解するためには、やや難しすぎる。だから、“意識作用=私-が-思う”、という堅い結びつきをいかに解体するかという哲学的な議論ではなく、もう少し筋トレに寄せて心身二元論の問題とは何かを考えてみよう。   「何のために筋トレしてるの?」という観念的な問いは、目的意識=私-が-身体を動かす、という堅い結びつきのもとで身体運動をするということを前提としている。これがここで問題視している“筋トレの観念化”あるいは“観念化された筋トレ”だ。しかし、身体を動かしているときには、まさに“身体を動かす”という意識作用という“主語”に従属するはずの“述語”がその主従関係を動揺させている。「何のために?」という問いは、動揺した主従関係を再び統制しようとするがゆえに、観念化と呼ばれなければならない。

 

  しかし、それだけではない。僕がもっと問題だと思うのは、身体をベースとした共通感覚の欠如が「何のために?」という問いに含まれているような気がしてならないのだ。これは、問う側の問題だけでなく、近年の筋トレブームを担う人々にも言えることだ。ジムという仕切られた空間で、究極的には一人で身体を鍛えるということのうちに、ともに身体感覚を分かち合って、心身二元論の虚構を笑うすがすがしさが筋トレという身体運動に失われつつあるということだ。筋トレ仲間との共感は得られても、運動のなかで培った身体的リズムがジムの外へと接続していかない——ここに仕切り(ゾーニング)が生んでしまう身体感覚の断片化があるように思われるのである。  

 

 身体感覚、その運動性、動き、それが被る快感や苦痛、それらを含めて身体運動は、僕ら人間の共通感覚や同情、あるいは「リズム」を支えてくれるものではなかったか。ともに運動をする、ともにルールを共有して汗を流す——ここに心身二元論の支配が貫徹しないアジールのようなものがあったはずである。このように言うことで、決して体育会系的な価値観を押し付けているわけではない。体育会系ではこのようなことは教えてくれない。コンヴィヴィアリティ(饗宴)、あるいは連続した身体の共通感覚のなかで生じる祝祭性があることを体育会系的なところでは教えてくれない。少なくとも、日本の体育会系文化は、自由になること、祝祭気分を味わうこと、身体的共通感覚の重要性を感じることよりも、服従することを基調とする。それは社会道徳へと身体を服従することを覚える場であり続けている。

 

  このような次第で、「何のために?」という筋トレにつきまとう問いのやっかいさと筋トレという社会現象には、身体的共通感覚の問題が含まれているように感じるのである。筆者も身体運動を生活の一部に取り入れてしまうのも、無意識に身体的共通感覚の欠如から来る空虚感を必死で埋めようとしているからなのかもしれない。しかし、「何のために?」と問わないでほしい。僕がバーベルを握る冷たさから感じるのは、身体が相互に触れあい、共感しあい、互いの存在を“観念より手前”で認め合うような身体の「饗宴」の欠如なのだ。バーベルは、決して他者の身体の代わりにはならない。

 

  最後に、身体の哲学らしく、モーリス・メルロ=ポンティというフランスの身体をベースにした現象学者の言葉を引き合いに出して、本記事を閉じたい。『言語と自然』という講義録のなかの一文だ。

 

  “自己の身体はある感覚的なものであり、それは「感ずるもの」である。それは、見られもすればおのれを見もするし、ふれられもすればおのれにふれもするのであって、あとの方の連関からすると、それは他者には近づきえず、その名儀人だけにしか近づけない側面をもっている(…)。自己の身体は、不可視なものの可視性としての肉の哲学を包合しているのである。”(1979年、130頁)

 

  “触れ、触れられる”という同時性を生きる身体——その連関を生きる私の身体は、「その名義人」としての「私の身体感覚」でしか近づくことはできない。だが、その「身体感覚」のなかで感じる「ある感覚的なもの」、あるいは、震えやバイブレーションや饗宴の感覚(コンヴィヴィアリティ)は、確かにその他の人々にも感じることができるはずだ。「不可視なものの可視性」を生きるこの「肉」は、観念の手前で確かにあなたとの饗宴を感じるのだ。

 

(松井信之)