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石田英敬・東浩紀『新記号論』を読んで――僕たちはどうしたら「りんごは乳房である」と言えるだろう

あらゆるものを記号へと還元していく、そうすることで盤石であるように思えた「世界」の意味秩序を揺るがし、新たな社会の可能性を開くことができる——そうした可能性が信じられた時代があった。否定神学的な記号論が「大きな物語」に基づく知的な言説の基礎を突き崩し、その帰結として普遍主義を超えた“普遍”へと到達することができる。

 

 そうした否定神学的なスタイルの知を支えた哲学の一つにかつての記号論があった。『新記号論』は、否定神学的な記号論が冷戦構造の解体後の「大きな物語の終焉」(リオタール)や「歴史の終わり」(フランシス・フクヤマ)の時代を通じて失効してしまったことを受けて、また、その間、新たに形成された情報空間が社会生活に与える影響を考慮しながら、記号論を再構成することで否定神学的な古き良き思い出から救い出し、鍛え直そうとする書である。

 

 

以下で見ていくように、同書は、単なる記号論の再興ではなく、言語中心主義化した記号論を身体に結びつけて再編成する。この意味で、記号論の身体論的転回と言うことができるのではないか。

 

《無意識は言語のように構造化されている》——ジャック・ラカンは、『精神分析の四基本概念』でこの命題を示し、「フロイトへの回帰」を主導したことで有名である。もちろん、言語“のように”と言われているので、私たちが使用する言語そのものとして構造化されているわけではない。この命題は、フロイトの『ヒステリー研究』(1895年)や『夢解釈』(1900年)などの著述で示されている患者による精神病理の独特な言語的な象徴化や自由連想などの実例に基づいている。

 

 

また、こうした無意識をあたかも言語のようなものとして構造化されているとする見方は、たとえば、その後のラカン派精神分析に基づく社会批評に大きな影響を与えた。たとえば、現代の思想の舞台を眺めれば、スラヴォイ・ジジェクがおり、また日本において、マルクスの価値形態論を言語的な記号論の上でトレースして再解釈しなおした柄谷行人がいる。そこで、資本主義的な貨幣経済のもとで「価値」が転倒されたかたちで社会的活動に意味を付与するかのように現れる事態が明らかにされる。言ってしまえば、貨幣が表現する「価値」を産出する「労働」という見方は、私たちの象徴的言語の秩序のなかで事後的・回顧的に作り出された因果関係の転倒の帰結なのである。しかし、近代経済学は、こうした因果関係の転倒に対して無反省にその学知の体系を築いてきた(だから、近代経済学のディシプリンでは、「貨幣とは何か?」が根本的に問われることはない)。これにたいして、言語的記号論に軸足を置く精神分析をマルクスの経済学批判と接合するアプローチによって、記号としての貨幣現象の恣意性を露見させようとしてきたのである

 

このとき、とくにジジェクが主に立脚点とするのは、ラカンが構築した「想像界」「象徴界」「現実界」という三つの領域に基づく分析である。「象徴界」は、言語秩序の領域であり、「大文字の他者」なる超自我に対応する審級がその秩序を規定する。「想像界」は、自我の想像行為であり、それが自我の願望を形成するがゆえに、つねに欠如と背中合わせになっている。幼児期から「象徴界」への参入は、母親のもとでの充足した状態からその不在の経験による欠如を言語的な意味を獲得していくことと並行して行われる。そして、「現実界」とは、言語によって捉えることができない領域である。「現実界」は「象徴界」の外部にありつつ、「象徴界」を規定する言語によって不可能なものとして構成されるという意味で内在的であるという両義性を持つ。こうして鼎立(ていりつ)される各界の区分は、フロイトの自我論ベースの精神分析を社会分析へと拡大・するために、ラカン派理論家たちによって活用されてきた。

長い前置きになったが、『新記号論』で石田英敬がラカンに対置するテーゼは、《無意識はシネマトグラフィーのように構造化されている》というものだ。つまり、無意識は言語ではなく、映画スクリーンのようなものとして理解されなければならない、と石田は言う。

なぜか。同書で展開される「石田記号学」の要は、フロイトの無意識についての理解を神経生理学的に素直に読み解くことである。そうして明らかになる基本的な事実は、私たちが眠るとき夢を見ることが示しているように、私たちは無意識の領域に「退行」するとき、言語ではなく、スクリーンのうえに映し出された幻影(映像)に出会う、ということだ。

 

 

 これにたいして、言語的に構造化されているのは、無意識と意識を媒介する「前意識」である。こうして、ラカンによって命題化された《無意識は言語のように構造化されている》は、明確に誤りであることが石田によって指摘される。言語記号と言語記号以前の神経生理学的なプロセスについての詳細な説明は、本書を参考されたい。その記述(というか対談なので語り)はとても鮮やかであり、私たちの身体のうちに流れる刺激エネルギーが言語的意識に接続される神経学的ないし「局所論」的な理路が明快な図式とともに詳細に示されている。

 

ところで、石田記号学の命題——《無意識はシネマトログラフィーのように構造化されている》——も、シネマトログラフィー“のように”と言われているが、これは単にラカンの言語“のように”の引き写しではないだろう。無意識は、映像的ではあるが、そこに映画のように明確なテーマや物語性が存在しないという点で、シネマトログラフィーそのものとして構造化されているわけではない。夢には、誰かが主役であり、特定のテーマが設定され、特定の出来事のもとで何かを具体的なものをめぐって具体的な経験を登場人物たちが明確に配分された役において行為するという“筋立て”は存在しない。もちろん、何かしらのテーマ(意味)らしきものが夢に含まれていると、私たちは後になって考えることができる。しかし、夢を見ている最中に、そうしたテーマを明確に理解できるわけではない。無意識が、《シネマトログラフィー“のように”構造化されている》と言われるのは、映像的ではあるが、それが編集されて映し出される仕方にまるで「合理性」がないように思えるからだ。石田自身の言葉では、

 

“映画においては、シネマトグラフィックな映像の断片であるラッシュ・フイルムを編集して、シナリオがことばをつけることで、記録された知覚経験が分節化つまり物語化され、『合理化』されます。しかし、その合理化の「残余」として、言われざること、検閲内容、つまり抑圧されたものもまた、つねにすでに言われぬままにとどめ置かれている。これと同じようなプロセスが、人間の心のなかでも働いているのだとフロイトは考えているようなのです”(同書、150頁)。

 

 いかに内容が分かりにくい場合でも、ストーリー編集があり、配役があり、始まりと終わりが存在するという点において、合理化されたストーリーはつねに「何かについて物語られている」という方向性が明確に存在していると言えるが、夢の世界——合理化から零れ落ちる「残余」の領域——では、そうした物語的な完結性は存在しない。確かに、無意識は、何か言語のような記号による「合理化」に反するドロドロとしてエネルギーの掃きだめというわけでもない。そこには確かに「構造」が存在する。だが、その構造は、映像的・視覚的なものの断片が脈絡なく結びついているあり方をしているらしい。あるいは、自由な残余的な映像のさまざまな断片が限りのない結合可能性において潜在している、とイメージすればよいだろうか。

 

 

こうした無意識の映像的なイメージをもとに言えば、フロイトの自由連想という、いっけん言語を重視するかに見える議論は、言語を断片的な映像世界へと開いていくあり方であり、無意識のスクリーンを“脈絡なく編集する”——語義矛盾的ではあるが——ような語りである。だから、自由連想は、自我のなかで閉じられた語彙(ラカンのいう「象徴界」)を映像を媒介にして攪乱し、開く行為でもある。

 

まだ一読して理解しきれていないが、以上の映像的に構造化されている無意識という見方は、単にその命題だけでも興味深いのだが、それだけではなく、映像的なものと言語記号的なものの結びつき——つまり、解釈——の重要性を違う形で明らかにしているように思える。言語記号は、私たちの神経エネルギーの回路からすれば、閉じられた表象のための記号システムでしかない。それに対して、記号は、言語に限らず、言語以前のモノの知覚のレベルでも存在しているし、また、今日のネット空間を支える技術のことを考えれば、人間の言語記号ではない情報処理が遍在していると言える。僕たち人間は、言語を操る特権的な生き物として、そうした広大に広がる記号過程から距離を置いて、自己をコントロールできると信じてきた(し、いまでも信じている)。

 

しかし、『新記号論』から読み取れること、石田記号学から読み取れることは、むしろ僕たちの身体は、刺激エネルギーを通じて、モノや情報空間に映し出される映像や音の記号に対して驚くほどに透過的である。つまり、言語的記号化の手前で、すでにエネルギーに乗った記号に浸されながら生きているということだ。言語的な記号とそのエネルギーの流れに乗った記号過程のバランスが取れれば、問題なく私たちは言語的な記号を特権的なものとして扱い続けることができたのだろう。

 

 

でも、そのバランスは、今日のGAFAがグローバルに席巻する時代において決定的に均衡を失っている。こうした状況下において、身体的な記号過程にいかに技術環境が深く浸透しているのかを理論化する必要があったのである。『新記号論』は、この理論を展開してみせている。記号は身体から切り離された観念の道具ではなく、私たちの身体に入り込み、現実を構成しているという意味で実在するものである。それは現実を作り出してしまう。そして、実在的な記号が身体的なエネルギーの過程と結びついているとする見方が正しいとするなら、僕たちの身体的反応や欲望の発露が現実を構成してしまうという事態を言語や知識のレベルではなく、身体のレベルに遡って考えなければならないのである。

 

もう一点。同書には、述定以前問題について扱われている箇所があった。個人的にはそこが一番興味があるところで、面白く読めた。「SPである」というような論理的な言明(述定)が生じる以前において、僕たち人間がどのような知覚過程を経てそうした判断を行っているのかを問うのが述定以前問題だ。たとえば、フッサールなら、「SPである」という述定を行う過程においては、SPという命題述定までの時間が述定の本質を支えているとして、述定以前の根底に時間経験を見出した。本書の大きな問題意識の一つに、デジタル・メディア環境において、述定以前問題を再構成するにはどうすればよいか、ということがある。というのも、単に人間の論理的思考能力の枠内での述定ではなく、今日のデジタル・メディア環境においては、「SPである」という述定が、その環境の技術的な基礎となっているアルゴリズムを軸としたデータ化によって代替されており、諸個人の判断の自由がメディア空間のなかで操作されているという問題が生じているからだ。

 

 

本書でもパースの哲学とともに指摘されていた通り、インターネット・メディアや映像メディアは、「SPである」という述定だけでなく、視覚映像を示すことで「これは~である」という述定が私たちの思考の代わりをするという事態をもたらす。つまり、「あなたは○○な人間です」という述定がデータに落とし込まれたうえで、メディア・インターフェースに書き込まれた情報として僕たち一人ひとりのパーソナリティや欲望を定義してしまう。これはネットを使用すると経験的に分かることだ。

 

なぜこの議論が面白いと思ったかと言えば、僕は中村雄二郎が好きでよく読んでおり、また個人的に言語や解釈的な生の問題から今日の様々な社会問題を理解するというような研究の延長線上で彼の哲学を再読したりしている。彼の著作に『述語的世界と制度』という本があるのだけれど、『新記号論』の読後に、中村の議論の意味がよく分かるようになったと思えたからだ。また、中村の『哲学の水脈』には、「共通感覚・平常底・人工知能」という章があり、今日のメディア技術環境とは異なった文脈ではあるが、技術が記号過程の中心に食い込んでくることの意味を論じている先駆的な考察が見られる。

 

詳述はまた別の機会に設けるとして、中村は、自由な述語(述定)を通じて世界が生成変化していく様相を明らかにしている点で、何が今日のインターネット・メディアを通じて可能性として差し出されつつも、その空間のなかで抑圧されてしまっているものが何なのかを示唆してくれる。一般的には、自由な情報へのアクセスやコミュニケーションの可能性が広がったと言うことができる。しかし、同時に、今日のメディア技術空間では、諸個人の個人情報はデータベース化され、管理され、分断社会が逆にもたらされるという問題が存在する。だから、一般的なレベルで今日のメディア技術によって可能となるものや問題を論じても仕方がない。

 

 

中村の議論に依拠していえば、厳密な「SPである」という論理学的な述定(象徴的言語秩序)を脱臼させるような述語の創造が連鎖していくことで現れる述語の〈場〉がリズムとして、あるいは〈振動〉として共通感覚を生み出していく——こうした可能性がインターネット・メディアとともに感じられつつも、データ化を通じた管理システムの形成によって抑圧されていく、このように思えるのである。わかりにくい言いまわしになったが、中村の議論に依拠すれば、「リンゴは果物である」であるならば、「リンゴは果物以外のカテゴリーには属さない」という意味の画定が生じてしまうが、いやいや「リンゴは乳房である」というような創造的な表現にこそ「述語」のポテンシャルがある。そういえば、『新記号論』にも「おっぱい」という対象表象がいかに定着するという議論があったが、対象表象が観念的な記号として定着するまで過程は語表象より前に位置づけられる。

 

ともあれ、「リンゴは乳房である」という論理は、主語-述語の論理学的な述定ではなく、中村によれば、述語同士の自由な連想的な結びつきである。そうした述語同士の遭遇が連鎖することで、何か「これ」とは指示することのできない「世界」の「振動」と共鳴する。そして、「リンゴ」がまさに「乳房」のようなものとして、私たちのうちに映し出されるのは——という言い方をするのは、中村哲学が西田幾多郎に依拠するものだから——、述語的な創造行為が私たちの無意識に見られるあの断片的な映像の領域であることと結びついているように思えるのだ。

 

 

と、長々と書いてきたが、同書には、まだまだ組み尽くないほどの刺激的な議論や示唆があり、間違いなくパラダイム・シフト的な視点を示している。それだけでなく、これでもかというくらい明確に図式化し、思想史的に系譜化し、領域を横断し、という大技の数々を凝縮的に示すことを通じて、人文社会科学と自然科学との結びつきを回復する総合的な知の新たなかたちを確かに感じさせてくれるものであった。

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コメント: 1
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    石田英敬 (金曜日, 31 1月 2020 19:52)

    本日気がつきずいぶんと遅れて読ませていただきました。力のこもったエッセイ。中村雄二郎氏の述定の議論と重ねて読んでいただきうれしいです。私も最近中村さんのこの仕事に関心を向けています。