· 

黄色いジャケットと「未来が見えない」こと――現代世界における「怒り」と「驚き」

フランス各地で広がっている「黄色いベスト(Gilets jaunes)」運動——フランスで一般者の整備の際に装着を義務づけられている蛍光色のベストだそうですね。夜でも目立つ。11月半ばに始まって、今やフランス全土で14万人弱の規模に膨れ上がっているのだそう。パリだけで1万人。抗議活動現場では目がチカチカしそうですね。といっても、催涙弾など撃ち込まれてるわけだからチカチカどころではありませんが。

そもそもの始まりは燃料税に関わる政策だったようですね。燃料価格が上がっているところに、さらに上乗せしてダブルパンチを庶民に食らわせようとしたマクロン政権——抗議のおかげで燃料税引き上げ案は延期されましたね。

 

 

これはAsahi Shinbun Globeの記事で書かれていたことですが、燃料に関わる政策でダイレクトに影響を受けるのは、都市部よりも周辺の小さな村々で生活する人々だそうです。というのも、彼らにとって車は生活必需品。こういった人たちも黄色いベストを車から取り出して「すわっ!」と馳せ参じていることでしょう。画像はバイクですが。

 

そういえば、フランスの車といえば、カルロス・ゴーンさん。最近日本で急に逮捕されてしまいました。もともとはルノーの人でしたね。フランス絡みの穏やかじゃないニュースが巷をにぎわせている。

 

まったく関係のない場所同士で起きていることですが、何かつながりを見たくなってしまいます。一続きの出来事という意味ではなく、解釈として「どういうことかな」と。

 

日本でゴーンさんが起訴されたのは報酬絡みでしたね。50億くらい申告漏れがあるじゃないか、と。ゴーンさんからすれば、日産からもらうと約束している報酬のことだから、なぜいまのうちから申告しなきゃならんのだ、という言い分なのでしょうが、その真偽のほどはここでは問いません。わからないので。

 

ゴーン氏逮捕関連のニュースでは、「こんなにもらって!」というような報道で、日々のやり繰りにいそしむ庶民からすれば「やっぱり金持ちは強欲だ」という印象を受けやすい。検察からすれば、起訴・逮捕の正当性は、もう「庶民感覚の正義」に頼るしかない。あるいは、裏話的に、「実は日産はルノーに経営統合されようとしていて…」というように話をもっていって、「国産企業が乗っ取られる!」というような危機感のほうへと持っていこうとする。

 

 

でも、ゴーン報酬事案については、「なにが論点なの?」というか「なにが庶民に関係あるの?」というような印象をどうしても受けてしまう。そりゃもちろん、検察の強引な捜査は公共的な問題として重要でしょうけど。フランスで起きているような庶民のフラストレーションの爆発というようなものはまったく感じられませんね。そもそも庶民の問題というよりも、有名経営者のスキャンダル的な位置づけなので、そりゃそうなのですが。なんか国レベルで問題になる出来事として、フランスと日本の間でこういう違いがでるものなのか、と漠たる印象があるのです。

まぁ、ゴーン氏はともかく、黄色いベスト。抗議運動で、料金所を封鎖したり、車に火を放ったり。このまえ渋谷のハロウィンでも軽トラをなぎ倒す群衆がクローズアップされてヤーヤー言ってましたが。その比じゃない。燃やしまくってる。とはいえ、抗議運動の大部分はいたいけな庶民たち。労働者や年金生活者たち。暴徒化しているのはごく一部なんだそうです。スタバのガラスも割られる始末。

「大部分は穏便に抗議したいのに、『壊し屋』が抗議運動に火を注いでいる!」と言う記事もネット上にありました。「壊し屋」とはフランス語でCasseurだそうです。casserが「壊す」という動詞みたいなので、文字通り「壊す者」なのでしょう。また、casserには「ひびを入れる」ような意味もある。こういった一部の暴徒が抗議運動全体に「ひびを入れる」ような真似をしていて「けしからん」というようなことでしょう。

 

 

「黄色いベスト」運動は、どうも自然発生的に生まれてきたでものようで、そこに「壊し屋」が入り込んで、車を燃やす、ガラスを割るだのするそうです。そうこうしていると、負傷者が800人くらいになり、警察にしょっ引かれた人も1400人くらいになってしまった。けが人だけじゃなく、死者も出ている。先日は、抗議運動参加者がトラックにひかれて亡くなってしまった。どうも車絡みが多い。日本のメディア報道のように完全に都市の機能がマヒしてるわけじゃないそうで、普通に生活しようとしている市民たちもいる。でも、トラックでひらかれたりする。こういうところに徐々に日常の社会秩序にほつれが生じているのを感じてしまいます。

黄色ベストの人たちは、年金支給額とか給料とか、税制や司法の改革、それにマクロン大統領の辞任などを求めているようです——うーん、なかなか要求が多いですね。これはかなりの抜本的な改革でしょう。しかも現政権は退け、話はそれからだ、と。気持ちはとてもわかる。

 

 

運動の代表者の一人にプリシラ・リュドスキ氏が立っていますが、この人が発表した要求には政治家の給料と年金を下げることも入っている。「これだけ国がボロボロなのに、よくそんなぬけぬけとお金をせしめますね~」ということだろう。気持ちはとても分かる。

 

マクロン大統領は、一定の譲歩も示しましたが、あくまで過激化するデモには反対するとしていますね。「あなたたちの怒りはもっともだが、それには『グローバルな理由』があるのだよ」と反論したそう——アントニオ猪木さながらの「俺に言うなっ!」

しかしまぁ、その「グローバルな理由」とやらを盾に、就任以来、生活者を狙い撃ちするかのような政策をとって「金持ち優遇」と批判されてきたのも事実。デモの直接の原因になった燃料税の引き上げもその一つ。この増税策は、電気自動車への乗り換えを推進する政策とセットのものですが、「パンがなければケーキを食べればよろしいんじゃなくって?」よろしく「燃料が高いの嫌なら、電気自動車があるじゃないか!」みたいなこと言われれば、そりゃ怒りますわな。

 

 

とはいえ、「グローバルな理由」というのも重要なことでありまして、やはりグローバリゼーションによって社会格差は広がるは、地方は疲弊していくは、福祉はコストカットの名目で切られるわというかたちで、「黄色いベスト」運動は、そうしたマクロな事情のもとで起きているわけですね。どうも統計調査などでは、フランスの地方の人々は、こうつぶやいているそうです——「未来が見えない」。

有名なフランスの歴史人口学者のエマニュエル・トッドさんという人がいますが、その人がどこぞのニュース討論番組で弁舌を振るっている動画があります(https://www.youtube.com/watch?v=Qqvu1yts3Q8&feature=youtu.be&fbclid=IwAR3KXMHtMP0W23sA5MrzeKbdSfIHCITfw3o3f2TCTQS86tJnsZB5FbofwOg)。画像の一番右の人です。彼は一個人としてこの運動に共感している。「でも暴力はだめよ」、と言っているのですが、それよりも重要なことは、フランスにもイギリスのBrexitだとか、アメリカのトランプ現象だとか、それと同じ性質の問題が差し迫っているということなのだと指摘しています。トッドさんによれば、EUのなかにいることで、フランスの経済政策の独立性や、はたまた国の独立までもが蝕まれている——そのために抗議することはまったくもって正しいことだ、と。

 

 

実際に、黄色いベスト運動支持者たちの間で、あのマリーヌ・ルペンの国民連合とかですね、メランションの「服従しないフランス」への支持がじわじわとあがってきているのだそう。国は、右に左にまっぷたつになり、グローバリストで金持ち優遇のマクロンだけはやっぱり違うという雰囲気が形成され始めているのだそうです。というか、この動きは前からあったのですが、マクロンでひと段落かと思ったら、そうは問屋が卸さないということがわかってきたのでしょう。

 

 

そして、黄色いベスト集団の掛け声とともに、右も左も解散総選挙せよと要求している。まぁ、政権が代わってですね(それも極端な方向に)、未来が見えない人々に未来を見させてくれると考えられるかというと、どうもそうはならないだろうと思いますが、はっきりした選択肢を庶民に対して示してくれるのは確かでしょう。「未来」といっても、さまざまなイメージがあるわけですが、その中身をどう定義するかは未だに宙ぶらりんの状態でこういう事態になっている。先行きの見えない中で、車を燃やし、ガラスを割る——現状の全面的な否定の現れでしょう。未来へ進みたいが明確なヴィジョンがない。しかし、先へ進みたいんだ、という衝動のようなものが現状否定を破壊によって起こす。

メディアやネット記事では、「デモはフランスのよき伝統(でも、破壊は違う)」という論調が目立ちますが、これどうなんでしょうね。歴史の事例を挙げれば、暴力の歴史もあるじゃないかといくらでも言えそうですが、それはともかく、暴力抜きのデモは支持しますというところに、何かこの運動の本質を見ようとせず蓋をするような態度を見て取ってしまいます。そもそも現在差し迫っているグローバルな問題は、破壊衝動やら暴力やら抜きで、まったく穏便に抗議らしきものをして、「はいそうですか」というように収束していくものなのか…?

 

たとえはわるいが、ロシア革命を思い起こしてみれば、ボルシェビキとメンシェヴィキの対立。レーニン率いるボルシェビキが勝った。強引な社会主義革命。穏便に議会制度を導入し、徐々に社会主義に向かいましょうと言ったメンシェヴィキは負けた。その帰結がいくら凄惨なものであっても、歴史を変えたのは、強引で一気呵成なボルシェビキ。穏便さはまったく歴史を動かさなかった。社会哲学者の大澤真幸さんが出されている例です。

 

 

「デモの権利は認めるフランスは素晴らしい」という話も分かるけど、それは平常の社会秩序のレベルで通用するお国話ではないでしょうか。「未来が見えない」人々が増えていく世界で差し迫っていることは、「デモの権利」だけではすまない話ではないかと思います。暴力も正当化されると言いたいわけではありません——僕が言いたいことは「暴力が正当化される社会的局面を私たちは生きている」ということです。暴力礼賛ではなく、暴力が社会の中心に表れてくるという事実を僕たちは受け入れたほうがいいということです。「デモの権利」なるメディアに乗る話題は、それを見ないようにさせてしまいます。

 

かといって、一気呵成に「えいやっ!」でやろうにも、フランスは移民が多い国ですし、全般的な支持を受けている運動ではないので、事態を抜本的に変えることはできないでしょう。「暴力はだめ」という意見にも限界があるし、暴力の行使にも限界がある——この2つの限界を見据えて、暴力化する社会をどう変えていくかという課題に、治安強化だとか管理強化だとか社会を分断して、僕らの人間関係をなんだか寂しくするような手段ではないところから取り組んでいかなければならないと思います。「怒り」や「憎悪」に勝るものはなんでしょうかね。僕は、「驚き」ではないかなと思うのですが。「おおっ、こんな生き方ができるのか!」というようなところから、見えない未来が見えてくるのではないでしょうか。

 

 

(松井信之)